2018年8月13日 - 80

メモ:言語と感覚について その1

先のメモについて、ざっくり言語に置き換えたもの。先のメモは別に言語についての話ではなかったし、ここでの置き換えには俺はあまり気を遣っていないので、ずっこけたところも多いかも。


1.いわゆる言語は定義を基底として存立するのではなく、おそらく感覚を基底として存立している。また感覚が形成された理由も世界も、言語使用者が解体された(言語使用者にとっての)基底領域にあるのであって、おそらく言語使用者がそこに真に至る時には、言語使用者は解体されている。その世界に、言語使用者が言語使用者のまま到達する事はおそらく出来ない。なぜならその世界は全ての言語が形成される前であろう世界だから/全ての言語が解体されているであろう世界だから。極端にいえばその世界にはコードは無い。しかしおそらく(これも極端にいえば)コードを伴わないメッセージはあるかもしれない。俺がここでいうコードだのメッセージだのの区別は、こういった領域辺りを想定するなら、ずいぶんと曖昧なものかもしれないけれども。

2.言語は「感覚の重なりとして」何かを示そうとするような重なりの姿であって、「何かを示す言語&言語によって示される何か」のような何らかの対になる指示様式ではない。言語はすでに重なりとして顕れている世界に、音声や視覚表記などの付加によって、さらにもう1枚の重なりを付加するようなものだ。その意味で言語は象徴の連鎖であって、論理的というよりも連想的な代物だし(ちょい変わったもの言いをするなら、いわゆる論理も連想の特殊な一形態かもしれない)、他の多くの重なりの要素の中に混ぜ込まれているものだ。ベイトソンのいう様な「重なりとしての世界」のうちに俺らはいて、そこで幾つかの要素を重ねたり剥ぎ取ったりして、何らかのやり取りをしたり、何らかのものを見出しているのかもしれない。メッセージもコードも含めた意味での「言語使用者」にとって、世界は、無数の重なりと、重なりの断片と、それらからの淡い連想が広がっているところかもしれない。


ちなみにこうやって書いたものも合ってるかもしれないし間違ってるかもしれない。合ってるとしても(あるいは間違ってるにしても)言行不一致の矛盾にあるかもしれない(1については、結局解体されていないところに立っている俺が、想像で解体について書いているのだから、言行不一致の矛盾にあるような感じがする)。俺はこれを現時点のまとめにしても、俺の結論にはしたくない。

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