2018年8月4日 - 80

重要メモ:アクセシビリティや一次情報について

1.数理や論理のようなものは、何らかの「概念のようなもの」や「その概念が表す/現すもののようなもの」を「はじめに定義して」そして話を開始する。そして数理や論理のようなものは、その概念ブロック的なものの並びや変形や消失などについて以外は語らない。「それは何についての語りでもない」のであり、「そこには、その概念ブロック的なものがどう展開する可能性があるか、についての話があるだけ」だ、と俺は思っている。

2.現在の自然科学のようなものは、例えば物理なんかが非常に分かりやすいが、数理や論理から表現の仕方を借り受け、それによって自然現象のより良い(と自然科学に携わる人らが思うような)述べ方を模索しようとしているのだろう、と俺は思っている。


■主に1について

数理や論理は「はじめの定義のような所作から始まっている」ような語りだと俺は思うし、定義というのは多くの場合明確なものだと俺は思う。

ところでしかし、俺らの認識する世界は「はじめの定義から始まる」ように形作られるのだろうか??そうではなく、薄ぼんやりとした/強烈な/柔らかい/明るい/昏い、などなどの感覚の受け入れ/訪れから始まるのではないのか??

例えば俺らが起きた時に、俺らにとってのこの感覚は始まり、そして例えば俺らが眠る時に失われていく(夢とかはとりあえずおいておく)。そこには「俺らという観測者」の「昏さ/不確かさ/曖昧さ」がある、と俺は思う。多くの場合、観測者が意図せず感覚は与えられていくし、また観測者が眠りについたり朦朧としたリすれば、感覚は失われていく。

そこには明確な線引きが、おそらくは無く、昏さからの浮上とともに起きていく(名前の付かない)感覚の授与と、昏さへの沈み込みとともに失われていく(名前の付かない)感覚がある。俺らの世界は明確には始まらず、ゆるやかに曖昧に始まり、また明確には終わらず、ゆるやかに曖昧に終わる。

また言えば、眠りに落ちる時のまさに眠りに落ちる瞬間を、俺らは意識できない。そこでは観測するという行為をもたらすあり様自体が解体されているからだ、と俺は思う。観測者は最後まで観測者足りえず、感覚の海に失われていくだけではないのか。そして俺らの認識世界はそのように始まり、そのように終わるのではないのか。

そういった意味で、不安定さ/昏さ/曖昧さから形作られていく世界を、「(定義の様な)安定さ/確実さ/明確さなどを始まりだ、という事とした語り」が語れるのか、俺は分からない。というよりも懐疑的だったり否定的だったりする。そこには「明確さから開始する事にされた言語による不明瞭さの語り」という、メタメッセージとメッセージの異なりがある。不安定さ/昏さ/曖昧さから形作られていく世界を語れるのは「不安定さ/昏さ/曖昧さが始まりだ、という事とした語り」ではないのか、と俺は思う。メタメッセージとメッセージの異なりが(とりあえずは)無い。語りの姿と、それによって語られようとする世界の姿が多少なりとも近しいのではないか、と俺は思う。


■主に2について

しかしまた、語りと世界は同一になり得るのだろうか??あるいは語りは本当に何かを語っている/語り得るのだろうか??自然科学について言えば、ある言語体系が何かの現象を顕す事が当然とされているが、つまりそこで「語りの成功」は確実なものと思われているように見受けられるが、それは本当だろうか??

俺らがはじめに与えられるのが無数の様々な感覚の束や海だとすると、そこには言語のようなものは何もない。しかし(こういったものはごく単純な考えなのだろうが)「同一の状況かで与えられる感覚群」のうちのあるものが、その感覚群の多くのものを顕すという風になっていく、ところがあるように俺は思う。ごく単純な話をすれば(この話が合っているか正直分からないのだが)、ニャーという鳴き声が猫の全体を顕すとか、猫の見た目が(鳴き声まで含めた)猫の全体を顕すとか、そういったものだ。そこにあるのは「ニャーという鳴き声が猫全体を顕す、ように俺らが受け取る」ような「感覚同士の結びつき」ではあるけれども、「ニャーという鳴き声と猫全体が同一になる」ような事ではないように俺は思う。ある感覚は「その感覚に紐づく何らかの全体の象徴」になり得ても、「その感覚に紐づく何らかの全体と同一のもの」にはならないように俺は思う。その意味で、語りは世界と同一にならない。語りはあるものの象徴や伝達信号として振る舞う努力をするものであって、あるもの自体/あるものの全体ではない。語りは世界の一部であっても、世界の全体ではない。

そしてまた、ニャーという鳴き声を発するものが猫以外にも多くいた場合、ニャーという鳴き声は猫だけを顕すものではなくなるだろう。あるいはそこでニャーと鳴いたのは、まだ俺らが出会った事のない生物かもしれないし、ただの物音かもしれない。その意味でニャーという鳴き声は、必ずしも猫を語るとは限らない。同様に、猫がワーとかギャーとか鳴くのなら、ニャーという鳴き声ではないものも猫を顕すかもしれない。あるいは人語を話す猫が出てきたのなら、それを顕す鳴き声?は極めて多岐に渡る事になる。他にも、道路の上を動くあの乗り物を、日本語圏では車というし、英語圏ではcarというように、ある語りが何を示す努力をするのか、あるものを示す努力をするにはどのような語りをすれば良さそうなのか、というのは確定的ではない。おそらく、語りは、あるいは言語は本当に何かを語っているのではなく、感覚の束同士の結びつき方を、ある社会集団や生物集団やあるいは個人や個体のうちで、示している(あるいは示す努力をしている)に過ぎないのだ。それはいえば文化的な努力であって、文化が解体されればそこにはおそらく何も残らない。


俺らの認識は昏いところから始まり、俺らの言語は本当に何かを語っているわけではない、とするなら「俺らが生きる世界」という、言えばある種の「一次情報」へのアクセシビリティは、どのように確保されるべきだろうか??あるいはどのように「隠蔽的な風にされないように」するべきだろうか??

俺は少なくとも、明確さから始める語りや、語りの成功を信じて疑わないような語りは、そういった一次情報に対して「メタメッセージとメッセージの異なり」という壁を設け、その壁の向こうに一次情報を幾分封鎖してしまうように感じる。それは根源的な世界の姿へのアクセシビリティの導通ではなく、むしろ破棄にも思える。その意味で、数理や論理を安易な基盤として、語りの成功を信じて疑わずに自然科学のようなものを行う人らは、実は世界の一次情報への探索ルートを自ら壁の向こうに押しやっているのではないか、とも俺には思える。

例えば、俺らの世界は明確さから始まるわけではなく/少なくとも観測者の不確かさ(観測者も解体されるという事と、観測者自身の観測は出来ないという事※1)があり、またおそらく全ての語りとは象徴/感覚の(恣意的あるいは文化的な)結びつきの並べ立てによる何らかの(成功する訳ではない)努力に過ぎない、といったところに幾分立つ事の方が、つまり雑にいえばそういった曖昧さや不確かさを引き受けたところに立っている方が、世界の一次情報へのルートをまだ失わずに済むのではないか、という風にも俺は思う※2。

※1:俺の右手は俺の右手を掴めない。俺の右手が俺の右肩を掴めるのは、そこに「距離」があるからだ。距離のない自分自身はおそらく観測できない。あるいは、まさに観測している部位は、まさに観測している部位自身を(そこに何らかの「距離」がないのならば)観測できない。全ての観測には、おそらく(少なくとも自分自身という)「観測し残す領域」がある。

※2:ところでまた昏さについていえば、俺らの観測能力や観測機能が失われた/構築される前の/解体された後の世界に、俺らは「観測者としては」辿り着けない、という話だ。しかし(これは全くもって観測能力が形成されたあとからの推論だが)おそらく、観測能力が構築される前になんらかの世界や俺らの姿があったからこそ、そこに観測能力が形成されたのであり、俺らはだからこそ観測出来たり、また観測能力が失われた状態の世界に「観測者としては」辿り着けないのではないのか。


生き物のコミュニケーションは、おそらく、失敗するかもしれない語りを、無数の象徴(例えば伝達物質や姿勢)を使って行っている。そういった失敗するかもしれない可能性のうちに、おそらく時折成功(?)するコミュニケーションがあるのだろうし、それによって成立する何か※3があるのかもしれない。そういった経験に対して内在的であること、傍観者/傍観的記述者でないこと、バタイユっぽくいえば内的体験者であること、などへのアクセシビリティを失わずにあれこれする、という事は出来ないのだろうか??俺は多少なりとも出来るような気がする。

※3:例えばそこでは「通常の非平衡状態のようにエネルギーや物質の流入が系を平衡でない状態に保つだけでなく、 そういった非平衡状態系が自己複製と選択によってバイアスされ保たれる」ような事に至るための何らかの決定的な事が起きているのだろうか??(元の表現はここ。俺の都合でちょい改変してますが意味は汲んでるはず(;・∀・))


ところでアクセシビリティと書いたが、重要なのはアクセシビリティではないのか??ある種の一次情報や、一次情報かもしれない情報へのアクセスを失わない事ではないのか??唐突だが、もしかしたら主体性だのなんだのも、そういった領域がちゃんと成立しているか/そういった領域を「文化的なあり方のうちで」相当程度に殺してしまわないかなどに関係するのではないのか??そしてまた極端な事を言えば、世界は物理的などではなく、すべては「感覚(の束)という『(名前の付かない、そしていつ途切れるか分からない、ある種の)情報』」から始まるのではないのか??

そういったところで起きるのは/起きているのは、不確定的なこと、覚束ないこと、あるいは不確定だったり覚束なかったりな状態だと俺は思うが、あるいは俺らの活動の基底にはそういった不確定で覚束ないような領域があるのかもしれないと思うが、だからこそ、生や認識やあるいは世界や、あるいはそこにおける無数の現象や活動は時に、そしておそらくは本質的に、魔術的に感じられたリする、というところが(もしかしたら)あるのではないだろうか??俺らの感覚が何かを感じるその初動において、世界は(あるいは世界の美しさは、あるいは世界の醜さは)おそらく「(少なくともその時の俺らにとっては、そしておそらく本質的に)タネも仕掛けもなく」訪れるのではないのか??ある意味では俺らは、何らかの記述方式などによって辿り着こうとする現象/出来事に、すでに/初めから辿り着いてるのではないのか??

そしてまたある種のコミュニケーションというのは、この「すでに/初めから辿り着いてる」ものたちのレイヤーやその近辺のレイヤーで(もしかしたら幾分投企的に、言い換えれば成功を約束される事なく。例えば分からなさのうちから、例えば感覚/分からなさ向こうへと)行われるのではないのか??あるいは、例えば身体の底からの声だの何だのといったものがあるとするなら、それの持つ非コード的なメッセージというのは、そのようなものがそこでまさに行われている、という事が帯びるメッセージだったりするのだろうか??※4

※4:この辺はまったく分からないのでゆっくり踏み込みます(*`・ω・)ゞ

メモ / 日々


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