2018年8月16日 - 80

メモ:メッセージ、コード、システムについて

例えば金属が水や風を浴びて錆びていくとき、まさに錆という現象が原子レベルで起きているところしか、まさに錆という現象は起きていない。錆を金属にとって破壊的な現象とするなら、まさに錆という現象が起きている部位にとっては、その現象は「破壊というメッセージそのもの/現象がまさに起きているその現象的様態」になる。しかし、まさに錆という現象が起きていない金属の別の部位にとっては、それは「破壊をいずれもたらすかもしれない」という「破壊というメッセージをいつか伝達するであろう『コード/記号/象徴』」となる。

おそらくきっと金属はこのようには錆を捉えないだろう。なぜなら金属は生きてはいない・・・・・・・からだ。金属は、自らに連続するどの部位が錆ていってもおそらく特に何かは感じないだろう。違う言い方をしていくならば、例えば何らかのホメオスタシス的な振る舞いをする機構を示す金属があれば、それはもしかしたら、自らを侵食する錆をそのように捉えるとは言わないにしろ、何らかのフィードバック的所作のうちで、錆による浸食を食い止めようとするかもしれない。

あるいはホメオスタシス的な振る舞いを示すだけでなく「自らの、今の、ホメオスタシス的な振る舞いがどういった状況にあるのか」という事を検知する機構を示す金属があれば、それは自らを侵食する錆に恐怖を感じるかもしれない。もしそのような振る舞いをする金属があるとするなら、その金属にとっての「ある部位への錆」は、その部位にとっての「破壊というメッセージ」というだけでなく、その金属全体にとっての「破壊に繋がり得るコード」として振る舞うような、メッセージかつコード、という振る舞いを示すものとして映るかもしれない。

ところでざっと書いてみたが、もしこのように捉えるのだとしたら、生きてはいない・・・・・・・という訳ではない、という程度の意味での生きている・・・・・という事は、心臓があって脈打っているとかそういう事ではなく、自らの何らかの部位に訪れた何らかの現象に対して、特に何も感じなかったり、あるいはその部位に訪れた現象とだけ捉えるのではなく、自ら全体に影響する何かと捉えるような振る舞いを示す事、という事になるかもしれない。

あるいは違う言い方をするなら「自らの部位に訪れた『メッセージ』を自らの全体に影響するような『メッセージかつコード』として捉えるような、ある種の抽象化/全体化/象徴化/警報化、あるいは部分と全体とのちょっとした混同、あるいは『この部位は、きっと自分なるものの部分なるものなのだ』という捉え方」がそこではひそやかに行われているのかもしれない。その抽象化は、明確な(外部の何者かによる論理操作のような)クラス分けのうちで行われて現れるというよりも、例えばホメオスタシス的な振る舞いの中での「全体的な調整」の中で行われているような姿として顕われているのかもしれない。

言い換えれば生命的な振る舞いというのは、(クラス分けをするような)論理操作者が外部にいるシステムのうちで現れるのではなく、そんな論理操作者は外部にもどこにもいないようなシステムのうちで顕われるものなのかもしれない。あるいはまた、俺らの一つの本性(ほんせい)というのは、そのようなホメオスタシス的な※1振る舞いの調整機構であったり、あるいはさらにその調整機構の調整を(あるいは調整機構の調整機構の調整機構の調整を。。。などと多段的な調整として)試みる何がしかの姿なのかもしれない。

※1:単に維持的な事だけという意味でのホメオスタシス的な振る舞いという事ではないかもしれない。例えばアポトーシスとかは破壊的でありながら、系の維持のために行われるようにも見える。

そしてまた、その調整機構が「自らの(例えばトポロジカルな)システム的範囲」を拡張して/誤解して/曖昧に/可変的に捉えられるような振る舞いが出来る場合、自らの周りの出来事も、自らに関連する何がしかの出来事(あるいは「曖昧で可変的な『ある全体』」)として捉え、時にそこから何かを感じ、時にその調整のために振る舞うのかもしれない。

ちょい脱線するが、もしそうなった時、自分なるもののいわゆる身体についた傷と、自分なるものがおそらく所属していると感じられる何らかのエコ-システムについた「傷」とはどう違うのだろうか??それはどちらも修復や調整の対象になるのではないだろうか??


世界には、それが何だか分からないけれども、おそらく自分自身というシステムあるいは自分が関連するシステムに何か影響を及ぼしているもの、のようなものがある。例えば何らかのものを美しいとか生命的だとか恐怖だとか醜いとか感じる事。

その時に、おそらく、影響という「コード」あるいは「メッセージかつコード」の受け取り手が、何らかの状態を是とか非とか快とか不快とかAとかBとか感じるものでなければ、その影響は「コード」あるいは「メッセージかつコード」として機能しないのだ。

それはおそらく、その受け取り手に何らかの(ごく単純な意味での)目的論的な性質が備わっていなければならない、という事を意味しない(例えばホメオスタシスは目的論的な振る舞いなのだろうか??)のではないかと思う。適当な事を書くと、生命的なものは、時に、何らかの状態への憧憬から動いているようにも思える。例えば死や生殖や安定や破壊や古さや新しさや拡大や退縮、あるいは貧しさも豊かさも含んだという意味での豊かなもの、自己自身という生命の手応えや他の生命の手応え、愛情と言われるようなもの、等々。


もし、ある曖昧な全体を維持するような(ホメオスタシス的な)振る舞いと、ある曖昧な全体を連続させるような(分裂などを含む生殖的な)振る舞いが、生命的なものの振る舞いの1つだとすると、その振る舞いはざっくりいえば「ある状態を受け渡し続ける事」に集約されるようにも思える。その状態は、死を間に差し挟む限りにおいて都度新しく、そして再現されるという意味において古くから繋がるもの、という話になるのかもしれない。

この話は色々足りないか幾分間違っているかもしれないが、もし多少なりとも合っているとするなら、1つ疑問になるのは、なぜ「ある状態を受け渡し続ける事」が続けられるのかという事、言い換えればなぜ「ある状態」や「ある状態を受け渡し続ける事」が大事/価値/必要等のようにされているのかという事だ(もちろんそれが実際に/本当に、大事で価値で必要なのかなんてのは少なくとも俺にはちゃんと分かっていないのだが)。


だいぶ適当な事を書くが、またもし、A.ある全体を恒常的に保とうとする諸機能があり、B.またAを調整監視する諸機能があり、C.さらに(Bから生成され)Bの働きを(幾分か統括的に)観る機能があれば、Cはあるいは意識のように振る舞うのかもしれないしそうではないかもしれない(ところでまたCも多層構造であったり、あるいは細分化されていて部分部分が相互調整監視をしたりしているのかもしれない※2)。適当に想像するなら、Cにおいては、言語を習得する/しない以前にほぼ全てといっていいくらいの多くのものがコード化/象徴化/抽象化されているように思う。

※2:こういう事考えたのは多分これ読んだ影響っす。演繹的かつアナロジー的って結構生物的な動きの気がする。じゃあ帰納って無いのかっていうと、それは生物の動きじゃなくて、(生物の動きの結果の)淘汰の動きに現れるような気もする(帰納が蓋然性の導出に留まる、というようなイメージというか)。生物は演繹とアナロジーであれやってこれやって。。。ってやって、その行動の結果を以って死ぬか/生きて次の演繹的行動をし始めるか決まる的な。適当イメージですが(*`・ω・)ゞ

ところでそのように考えるなら、Cに「刺さる/深く強い抽象的衝撃をもたらす」ようなメッセージやコードというのは、一体どのような様相のものだろうか??またそれはどの程度に「メッセージ的」なのだろうか??その調整機構が孕むかもしれない憧憬のようなもの(例えば何らかの原初的なパターンの現出が起きること/自らがそれの当事者や経験の場としてあること)刺さるようなものなのだろうか、また違うのだろうか??


■Sさんとのやり取りから抜粋

そういえば俺の数学やら自然科学への文句的なアレなんですが、雑にざっくり言うなら「明確な前提に基づいて簡潔に記述する事」と「何かに辿り着いてそれを知る事」は全然ちがうんじゃないのか、みたいな話になるかもです。もち俺は後者重要派だし、前者はむしろ何かに辿り着く事を、既知の知識のうちに(記号化や言語化への過信などの所作によって)変形させて回収してしまう事によって、疎外する事になるような気もします(〃・д・) -д-))ペコリン

あ、あと次話す時に、mortalかつ影の出来る観測者については話したいですーヾ(*´∀`*)ノ

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