2018年9月9日 - 80

観測が動的であることについて

どーもです。多分身体負荷とメンタル負荷掛かりすぎが原因で心臓あたりがグーっと痛かったりミシミシ痛かったりしてしばらくヤバい事になっていました。頑張ろうとするとに死にそうになるため頑張れない俺になったので、こっからしばらくは頑張らないモードでいきます。頑張らない俺になるのだ。

あとメンタル負荷掛かり過ぎで現実逃避でつくばに行った時に、駅ビル(?)の本屋で「生物はなぜ誕生したのか」って本を見つけて買いました。俺がすげーなと思ったのが、この本が2000円位で売られていた事っす。だって(タイトルを字面通りに受け取るなら)生物誕生の秘密が分かるのに2000円払うだけでいいんだよ!?ちなみに中身は様々な研究や仮説を盛り込んだ古生物史って感じです。個人的には超面白いっす。こういうの好きな人ならめっちゃオススメ。酸素濃度の話がやたら繰り返されてて若干ウザい感もあるけど(でもこの本的には超重要な説)、しかし全体的には非生物から生命への仮説もあったり、ガス濃度や温度による無数の影響の話があったり、非常にダイナミックな感じで気持ちが昂ります。最後まで読むと壮大感すらあります。


自然科学で2つ分からないのが、1.観測が定常的に出来る事になっている事、2.価値が述べられていない事、だ。2については、価値を語るのはその役割ではない、という風に語る事は出来ると思う。それはそれで分かるんだが、あえてゴニョゴニョいうなら、そういった語りは「自然科学は価値を語らないという、価値」を提示している、とも取れるのだから、ではそこで語られていない価値がどういった風なものなのか、どういった風に生じるのか、というところについて多少触れてもいいのではないかと思う(この辺は価値というよりも、定量的なものについて語る事が多く、主観的かつ定性的なものについて語る事は少ない、という話なのかもしれないが、今はあんま突っ込んでゴニョゴニョする気ないのでスルーします。ただ価値の語りについてはこの後でちょっと書く)。

そして1について言えば、俺的にはだが、俺らの観測はダイナミックに行われている。例えば俺らは、自分自身の誕生なるものや死なるものを、明示的に観測する事が出来ない。そこにあるのはおそらくは、明示的な観測を欠いて事象に関与し、また事象に関与されて、変化の只中にいて、姿かたちが定まっていない俺らだ。そこで観測が出来ないのは、おそらくは、俺らの脳を1つの中枢処理系とした感覚系や意識系や記憶系の準備が整っていないからだ。それらをまとめて「観測する意識」や「観測する意識の基盤系」というならば、俺らが誕生する時、その基盤系はまだ作られていないか、まっとうに動作するまで作り上がっていない。同じように俺らが死ぬ時、その基盤系はおそらく真っ当な観測が行えない程度に崩れて壊れてしまっている。そのような意味で、俺らは俺らの誕生や死をおそらく当事者として観測出来ない(観測出来ない当事者、として体験は出来るのかもしれない。そこにはその体験そのものの感覚も無いか、あまり感じられないのかもしれないが)。

ここから言えば、おそらく、俺らが通常「観測出来る」と感じている事柄も、あるいは「それを成立させている」と感じている自らの観測系も、様々な力、様々な状況、様々な様相のうちで、動的に作り上がっている状態を保っているだけで、それは時に揺らぎ、時に崩れたり、つまりおそらくは揺れたり解体したり壊れたりするものなのだ(ただしかし、これは俺には断言できない。なぜなら俺という観測系は、自分の観測系が解体する瞬間やそれ以降を観測できた事が無いからだ。これはおそらく全ての観測系がそうなのだ)。

そして揺れたり解体したり壊れたりする観測系は、観測系によって観測される事象と同じレベルで動作しているのだろうと俺は思う。物事が揺れたり解体したり壊れたりするのと同じように、それを観測する俺らの観測系も揺れたり解体したり壊れたりする。そして両者は片務的な立場に、つまり観測する側とされる側にあるのではなく、相互に影響や変化を及ぼす同一のレベルにある、というのが俺の感じるところだ。観測系は、そういった相互変化の系うちから首をもたげて生じたに過ぎないのであって(過ぎない、という言い方はどうかと思うが)、何も(相互変化の系の影響を被らない)特権的な立場にいて静的かつ定常的に観測が出来ている訳ではないのだ。俺らの観測系はおそらくはつねにすでに物事の動的な最中に巻き込まれていて、俺らはその中で、一時的に定常的に保たれているものでしかない観測系から、つまり動的な生のうちから、ものや自己や他の生に触れたり語ったりしているのだろう、と俺は思う(そして少なくともこういったところには、コミュニケーションの一つの側面、一つの要素があるように俺には感じられる)。

こういったところから俺は、自然科学の様な語りがみずみずしさを失うの1つの訳は、この「自らを取り巻く相互変化の系と同じレベルにいる/つねにすでに物事の動的な最中に巻き込まれている/動的に保たれているものでしかない観測系」という出来事の生身的なところを押しのけ、出来る限り計測が上手くいくように、出来る限り物事の影響を受けないように、出来る限り精密になる様に、といった「静的で定常的だと思われる、他の影響を受けづらい、その意味で特権的で静止した観測系」を成り立たせ、そこから計測や定量化によって物事を語る事が多いから、だと思う。もちろんそれに対して多大な努力が払われているのは分かるのだが、それは生の最中に巻き込まれ、動的に変わりつつある当事者の語り、という性質を大きく失っている様に思える。

またここから同様に思うのが、そういった「生の最中に巻き込まれた動的な当事者」から見た/体験する世界の諸々の事象がどういった価値や性質を持つのか、という語りも、自然科学の様な語りは失っているのではないか、という事だ。自然科学については例えばWikiだと「自然に属するもろもろの対象を取り扱い、その法則性を明らかにする学問」とか「自然における観測可能な対象やプロセスに関する科学あるいは知識のこと」といった語りだという説明があるが、だとすると、この学問や科学や知識は、誰のためのものなのだろうか??静的で定常的な観測者のためのものなのだとしたら、おそらく俺らは、そういった観測者ではない。そうなるとこれは、極端に言えば、誰にとってのものでもない(あるいはどういった観測者にとってのものでもない)知識の塊にならないのだろうか??

それともあるいは、何らかの厳密な議論のために、仮に/あえて、静的で定常的な観測があるとして、そこからデータや実験結果を取ってあれこれする、というのなら、それが「おそらくは動的な観測者であろう俺ら」に「世界の動的な姿を語る形で」還元されるのはいつどのような方法においてなのだろうか??俺にはそれが分からない、というよりも、自然科学の話と俺らの感覚や認識や観測の話には、そこに断絶や隔たりがある様にも感じられる。その意味で、俺らは自然科学の様な語りのうちに、自ら自身に響く語りを持っていないのではないか、という風にも俺は思う。

これについては、俺はむしろ自然科学の様なものに思い入れがあるので、非常に不満だ。科学は俺らに、ゴミのような計量結果の束などではなく、俺ら自身が感じたり生きたりする世界の姿を、曖昧なマジックワードなんかに頼らずに、直截に伝えられるものであって欲しい、というのが俺の、全く個人的な思いだからだ。


さんざん同じような事を書き続けているが、例えばここに「観測者は最後まで観測者足りえず、感覚の海に失われていくだけではないのか。そして俺らの認識世界はそのように始まり、そのように終わるのではないのか」と書いた様に、俺らの世界は、底の知れない昏いところから、事象に、つねにすでに明示的な観測を欠いて当事者として巻き込まれた姿で、またその巻き込まれた様のうちから、始まっていくように思う。

それは数理系や論理系のような、定義や公理や前提や名詞的なものから始まる始まり方ではない。その意味で、上記の様な始まり方から語る語りの方が、俺には、俺らの語り方として適切な様に思える。それが「表面的な明晰さを欠いている様に思える」としてもだ。なぜなら表面的な明晰さを選び、表面的な曖昧さを選ばない事の方が、むしろその語りにおいて(本質的には昏さから始まる物語を、見せかけの明晰さから始まる事としてしまう、という)自己矛盾的的な非-明晰さを顕す事になってしまう、様に俺は思うからだ。


ところで観測が不可能になるほどの観測系の解体を観測系の死というなら、観測者としての俺らは、例えば毎夜眠るごとに死んでいる事となる(夢についてはとりあえず置いておく)。実際の死は、観測系の再構築が不可能なほど身体系が解体した状態かもしれない。

しかし観測系の解体を死の比喩で語るとするなら、何らかの形で解体(のイメージ)につながるもの、例えば眠り、死、廃墟、自然、性、未熟さ、老い、腐敗、消化、代謝、破壊、などといったものは全てそういったものと幾分近しい雰囲気を帯びたものとなる。これらに共通する様に思うのは、観測系という構造物の解体の進行によって、普段は作り上がった(人為的な)構造物によってあまりアクセス出来なくなっているレイヤーが顕わになる、というもののように思う。それはおそらくは生命が機能的な姿に作り上がる以前の状態/姿/可能性が顕わになるという事だ。それは単純な死、つまり生命ではないもの、というよりも、解体に伴って生命があるやり方で開示されている、というものかもしれない。

そしておそらく、解体がさらに不可逆的に進行すると、ほんとうの死が姿を顕していくのだろう。ほんとうの死とは何かってのは俺にはまだよく分からないが。しかし、ただ、少なくとも何者かに関与するってのは、自らの生命の姿をあるやり方で/何らかのやり方でその者に開示する、という事なんだろう。


もしもコミュニケーションの本質が(といっても何らかの主観性から見た価値を欠いた※1「客観的な」本質が)あるシステムと別のシステムとの間における化学物質や圧力や熱の経済的あるいはシステミックな交換や移動や付与やそれによって起きるある状態の維持や変化や破壊であり、また情報と言われるものが「化学物質や圧力や熱の移動や付与やそれによって起きるある状態の維持や変化や破壊の象徴や、その象徴の象徴や、その象徴の象徴の象徴。。。」の一連の体系であり、広義のコミュニケーションというもののうちに化学物質等の移動等だけでなくその象徴、つまり情報の伝達や示唆も含めるするなら※2、生命の姿をあるやり方で開示するというのは、ある意味では、そういった一連のコミュニケーションの所作のうちに自らをあるやり方で開示する、という事になるのかもしれない。

※1:俺らに分かるのは、それが何かではなく、それが何をもたらすか&どう呼ばれているかだけなのだ。例えば酸素の欠乏は「酸素なるもの」の「欠乏なるもの」ではなく「息苦しさ」「恐怖」「死」という姿で訪れる。おそらくそれがシステムの主観性にとっての事象の顕われ方なのだ。おそらく俺らにとってはほんとうは、何もかもがそういったところから始まるし、何もかもがそういったところで起きているし、そしてまた俺らはそういったところのうち(あるいは少なくともそこに根がある世界/姿のうち)で生じて生きて死んでいくのだ。

※2:この辺りをまとめていうなら、コミュニケーションとは(死なども含んだ意味での)生命的な経済系における何らかの出来事を引き起こす所作、と言えるかもしれない。

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