2018年9月13日 - 80

メモ:ホムンクルスについて、進化について

意識についてはここ※1にある様な、脳の中のホムンクルスと、その無限後退についての話がある。ところで俺らの身体のうちにある脳の中にホムンクルスが住んでいるとしたら、そのホムンクルスは、今こうして生きていると感じている俺ら自身なのだ。俺らの中にホムンクルスなど居らず、俺ら自身がまさに「感覚と意識※2」というホムンクルスなのだ。こういう言い方をするのならば、俺らは、俺らの「真の」身体系と、「真の」環境系から生じたクレアトゥーラの幻なのだ。そしておそらく、俺らにとっての世界も同様に、俺らの「真の」身体系と、「真の」環境系から生じたクレアトゥーラの幻なのだ※3。

※1:デネットの本は読んだ事ないけど「意識とは中央処理装置をもたない、空間的・時間的に並列した複数のプロセスから構成されるものであり、以上のようなプロセスを経て構成される意識は『物語的重力の中心』(Center of Narrative Grativity)である」という捉え方は非常に好きだ。実際そういう事なんでないかな、という気さえする。

※2:意識なんて一まとまりのものがほんとにあるのか俺には分からないが。

※3:というよりも、クレアトゥーラそのものが(システムに直接影響を及ぼす系と、その象徴の系とのゴタマゼの)幻なのだ。

「真の」身体だの環境だのについては、俺らがそういったところから生じたのだ感覚系や意識系なのだとしたら、感覚系や意識系でしかない俺らには(というかどこの誰にも※4)辿り着けない世界、つまり「真の」物理系、化学系、生理系、といった領域だろう、という話になるんだろう。しかし逆にいうなら、俺ら自身も、俺らの世界も、クレアトゥーラの幻だという事であり、また俺らはそこに住まっているのだ、という事ならば、そのクレアトゥーラの幻こそが/クレアトゥーラという幻こそが、おそらくは俺らにとっての実態的な世界なのだ。

※4:感覚系を持つものが、一体どうやって「本当の」情報に辿り着けるのだろうか??感覚が、AをA’として伝えるものでしかない限りそれは不可能だし、おそらく全ての感覚系はそういったものだ。またもし仮にAをAと伝える感覚系があったとしても、感覚系を成立させている基底領域を、感覚系は感覚できない、と俺は思う。その意味で、感覚系には必ず感じ取れない領域がある。この2つから、「本当の」情報に十全に辿り着ける感覚系は無いのではないかと俺は想像する。もし「本当の」情報に、例えば「本当の」物理系や化学系や生理系に辿り着けるものがあるとしたら、それは「本当の」物理系や化学系や生理系に属するものだ。つまりプレローマの住人だ(これは煎じ詰めれば全て「物理系」という事になるのだろうか)。クレアトゥーラの性質からいって、まったきプレローマ的世界において感覚系は、つまりクレアトゥーラの産物は、おそらく全て解体され切っているのではないのか※5。

※5:もしそうでない、という人がいるのなら俺が聞きたいのは「死後の世界などが無いとして、あなたが死んで身体が解体され切った後、あるいはあなたが生じる前、あなたが感覚出来るものや感覚出来たものは何か??その時のあなたにとって世界はどういった姿なのか??」といった様な質問だ。


1つの考え方としては、俺らはむしろ代謝や成長や生殖といった主観的な/抽象的な世界/姿を生きるものであり、脳/身体/環境系の中の幽霊/ホムンクルスなのだ。

俺らが生きているのは俺らの感覚世界だ、これもまたクレアトゥーラの幻なのだ。俺らがクレアトゥーラの幻であるように。

心臓の痛みの場所は分からない。関連痛。例えばこういった事に顕れる様に、神経は万能センサではない。俺らの感覚世界もそうなのだろう。


(意図的な)進化なんてものは無い。それは変異と死の積み重ねによる長い時間のうちの結果的な変化の累積でしかない。ただしそこには、これも結果的に、淘汰圧が働いている。ゆえに、淘汰圧を越えたものが結果的に存続する。意図的な進化なんて出来ない。(意図的に)勝とうとしたものが取る姿が進化なのではなく、たまたま生き残ったものが取っていた姿の結果的な積み重ねが進化なのだ。


[身体への侵入物質排撃システム]←[伝達物質A]←[伝達物質B]←[伝達物質C]←[侵入体]

この場合、AもBもCも侵入体の象徴となる。もしかしたら侵入体すらも、排撃システムにとっては、侵入体自身が出す毒物の象徴でしかないのかもしれない。なぜなら(雑に言えば)実際に身体に直接的な影響を及ぼすのはその毒物であって、侵入体そのものではないからだ。システム的な意味での真に影響を及ぼすメッセージは、そこでは身体と毒物の間にしか無い。それ以外は全て(真に影響を及ぼすメッセージの)象徴なのだ。

ところでおそらく、その(毒物などの)メッセージがどういったものかは、化学的レベルで判定される。というよりもおそらく、化学的レベルを内包する生理的レベルで判定される。言えばシステム的レベルで判定される。なぜ化学的レベルのみで判定されるのではないかというと、もし毒物が身体に作用する化学反応がそこで起きたとしても、例えば身体が死に切っていて単なる物質のカタマリになっている場合、その化学反応は「物質のカタマリでしかない身体(だったもの)」に一切悪影響を及ぼさないからだ。

もし毒物が肉や骨を溶かしても、それはもう身体だったものには、つまり生理的レベルを失ったものには、文字通り何でもないはずだ。それが苦痛を生じさせるのは、そこに「ある化学反応が系にとってどういった影響を及ぼすか/及ぼしているか」という生理的なレベルの判定があるからだ(そのとき生理的レベルで判定されているのは何らかの平衡状態や恒常性、いえばバランスなのだろうか??そしてそもそも見ているのはバランスという抽象的なものなのだろうか??それとも幾分単純に、幾つかの物質の比率や水準との差分などだったりするのだろうか。あるいは異物検知の警報なのだろうか。あるいはこれらのようなものとまた違う何かなのだろうか)。

ところでもし肉親の死体が毒物によってその様にされたら、もし俺なら怒りや悲しみや理不尽さを覚えるはずだ。俺に痛みがなく、死体に痛みがないだろうとしてもだ。その意味で、俺は、生理的レベルだけともまた異なるレベルを含む幻のうち/システムのうちに住まっているのだろう。


生命の基本要素は、代謝、成長、生殖、死、誕生などあるが、このうち最も特徴的なのは代謝なのだろうか。それとも代謝だけではやはり生命なのではなく、誕生と死と合わさって初めて生命的になるのだろうか。成長と生殖は、ある意味では、代謝のための戦略的な動作、つまり二次的な動作にも思える。しかし生殖(複製)的な動作が無くては生命の繁殖/拡大は出来ない(そこは成長によって大きくなればいいのだろうか)。あるいは代謝や誕生や死よりも、繁殖への指向性こそが生命の特徴なのだろうか。

メモ


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