2018年11月29日 - 80

メモ:生/命について、演繹と帰納について

えー、生きてます。しかし死にかけたので少しずつ色々変わりました。頑張り過ぎると死ぬぽい事が分かったので、死ぬまでは頑張らなくなったぜ。以下Sさんとのやり取りから抜粋。

■生/命について その1

ちょっと話が混線していたり、AとBとCとDとEで言葉遣いが破綻してるとこもありますが、ご愛敬ってことで。

A.
「生命」というけれど、おそらく「生」と「命」は違う。「命」はある生き物が示す元々の無数の指向性だとしたら、「生」はその指向性群が様々な関係性のうちで姿になった様なものだ。例えばだけれども「命」の側から(そもそもは命として)押し出され、関係性の側から受け止められて、姿形になったのが「生」の様な話だ。

生は命のすべてを反映している訳ではない。関係性のうちで姿形になりきれずにいる指向性や衝動も命の側にはある。だから、もし全ての命は自らを十全に表現したがるとするなら、生は多くの場合、命にとっては非-十全だ。そこには非-十全さ故の葛藤や欲望や迷いが発生する。欲望とは元々あった衝動が、関係性のうちで抑圧され姿を変えた様なものだ。

B.
そういった「生-命」の幾分噛み合わない様な関係が「社会性-生命性」のうちにもあるのではないか。その「社会性-生命性」の噛み合わなさは、「協力性-収奪性」の噛み合わなさといってもいい(少なくともそういう場面がある)。収奪性とは例えば、生きるための他を食べる事などだ。収奪という言い方が限定的なら、暴力性といってもいい。

生-命の噛み合わなさ、対立、あるいは矛盾のうちに葛藤や欲望が生じたように、協力性-収奪性の対立のうちからも多くの矛盾が生じるのかもしれない。そしてその矛盾はある推進力になるのかもしれない。ところでまた、その協力性-収奪性の噛み合わなさのさらに基底には、生-命の噛み合わなさがあるのかもしれない。

C.
ところで命は、自らの指向性をよりいっそう姿形にするために、生の姿をとったのかもしれない。しかしそれによって、命は命から遠ざかり、生の姿になってしまったのかもしれない。そのため生はつねに根底で、自らが遠ざかってしまった命になろうとする。しかし命が命として展開したからこそ生が生じた、という事でもあるのだ。ある条件下で妥当と思える展開をした事が、自らを自ら自身から遠ざけたのかもしれないのだ(例えばそれによって生存や繁殖や繁栄に有利に働いたから??)。

D.
ところでこういったテーマの主題の1つに、融合と分離/離別があるように思う。生と命の融合と分離だ。あるいはそれは、命による、命自身からの分離/離別といってもいいのかもしれない。そして融合と分離の変奏系に、融合と喪失としての食であったり、融合と分離と分裂としての生殖や、融合と帰還と離脱としての死などがあるのかもしれない。そしてまた、融合ではなく、共有としての社会的な関係性というものがありえる。融合ではなく共有であることに、2つあるいは複数の生きものが1つにならずに、生を、あるいは命を分有する姿があるのかもしれない。

ところでしかしそれは、命が、自己の命それ自体からは分離した姿/非-融合的な姿でもある。しかしその非-融合的な姿がなくては、1つではなく複数の命の連続性もまたないのかもしれない。もし1つの命さえ続けばいいのなら、命は生にならなくて良かったのかもしれない。そうではない何かがあったから、命は生となり、命自身から離れ、別の生/命と様々な意味で交雑するようになったのかもしれない。

E.
融合/分離/離脱などを考えるなら、食べる事と食べられる事は融合になる。死んだものは命の流れから一度離脱するが、死体が食べられるなら再度合流する事になる。例えばそのように、命は沸き立つような流動をしているのかもしれない。ところで生殖をするものは、そこで他の命と交わっても、自己が融合的に命に還る訳ではなく、新たに生を生み出す事になる。その意味では一度命から分離した生は、生きたままで命には帰還しえない。そこに回帰願望があるとしても、その願望は、願望が消えた後にしか満たされない。

その意味では、生殖をするものは、命の池に生じた泡に幾分似ている。池は泡を生んで沸き立ち続けるが、泡が水に還るには弾けるしかない。泡は他の泡を通して命に触れたり、沸き立つ事を祝ったり呪ったり、生じてはまた弾けたりするようにも見える。ところでその沸き立ちを通して、水や池には何が起きているのだろうか。沸き立つことで何か善いことがあるのだろうか。例えば多様な生の泡が創出されるのは、命にとってリスク分散的だったりするのだろうか。あるいは非常にネガティブに捉えた場合、進化の場とは、生を殺し命をながらえさせるための、永く永く続く蠱毒の壺のうちの争いなのだろうか。

■生/命について その2

生と命は矛盾しているとこがそれなりに多いかもと思います。生にとっての(関係性のうちでの、時に協力的な)生存戦略と、命にとっての(時に暴力的な)繁殖戦略が異なるというか。あるいはまた、生と命は、作品と表現衝動に似ているのかもしれないです。よい作品を作りたいと思う事、実際作ってみる事、作ってみたら批判ばかりで作品を壊したくなる事/作品のない状態に還りたくなる事、などなどです。その辺りはもしかしたら、フロイト的なエロスもタナトスも、どちらも命の衝動であって、片方は繁殖志向、片方は安定/回帰志向、という話なのかもです。

なんとなく思うんですが、もしかしたら単性生殖の時代か、あるいはもっとそれより前は、生存戦略と繁殖戦略がイコールか、ニアリーイコールだったのかなー、という気もしたりしなかったりです。それが有性生殖にシフトしていって、生存戦略と繁殖戦略が分離し始めたのかな、とかなんとか。

また、命は、もしかしたらだいぶ怠け者で、1.安全状態で、2.余計なものを持たずに(効率的に/純粋に)、3.増殖/繁殖したい、という事なのかな、という気もします。コタツでミカンくらい怠け者なやつです。雑に言うとこの1がタナトスで、3がエロスかな、という気もしますが、適当書いているだけなので良く分かりません(;・∀・)

2はエロスともタナトスとも関係する気もします。剥き出しの状態にしてしまいたいとか、そういうやつです。サディズムやマゾヒズムと関係してるとこかもしれないっす。ちなSMは(俺は良く分からないとこが多いですが)生のしがらみから逃れて(あるいは何らかのレベルで生を破壊して)命の姿を再現しようという試みにも見えます。ただそれでやるのが変なお面かぶってムチ振り回すってのが(話としてはまあ分かるけど)俺には不思議なんですが。そういうのって結局文化装置や文化的な暴力装置を使っているだけで、文化の範疇や生の範疇からさして外れていなかったり、あるいはまっとうなやり方で命に向き合ってるわけではないのでは、という印象はあります。全く詳しくないし詳しくなろうとは思わない分野ですが、まあやってる事としては、命の衝動を抽出したいのかな、という気はします。その衝動ってある意味では、生(の安定性)にとっては破壊的で、死の様なもの/新しいものかもね、とは思うっす。

あるいはまた、生存戦略と繁殖戦略って書きましたが、これはどちらも生存戦略であって、生のレベルと命のレベルの2レイヤーにそれぞれの生存戦略があり、それが矛盾している/噛み合っていない状態が生き物、という事なのかもしれないです。人間の場合はそこに社会的協力関係や文化装置が介在するからさらに複雑になりそうな印象はあります。あとまあゴチャゴチャいえばネオテニーとかも絡むかもですが。

個人的には、「命」は衝動や指向性は強いかもしれないけど、そもそもは弱いものという感じがします。それが生き延びるために色々と身にまとって強くなっていったものが「生」ではないか、という風にも思います。乾期の間は芽吹かないタネとか、強力な腕とか、鋭い牙とか、タフな体力とかそういうやつっす。その意味では、そこら辺の動物や植物よりも原始的な菌類とかの方が、分かりやすい意味では、よほど命の姿には近いのかもしれないっす。そしてまた、そういうゴテゴテしたものを獲得していくたびに「生」は、ごく小さくて弱い「命」そのものからは姿を変えていったようにも思います。核には「命の衝動」がずっとあったとしても、表層部分は「命の衝動を実現するための補助手段」に覆われていったというか。

そしてまたそこに社会的協力性や社会的関係性がくると、よくも悪くも「取り繕い」が発生する様に思います。自分の核にある命の衝動を守ったり、遅延して実現させるために、命の衝動とは異なる振る舞いをする、というものです。この取り繕い部分が分厚くなり過ぎて、核の衝動と、通常の行動とに隔たりが起きすぎると、色々ぎくしゃくしてくる気はします。ほんとか嘘かはさておいて言ってみれば、動物が菌類と比べて命の姿に「補助機能がたくさんついた姿」になったとするなら、社会的な振る舞いをするものは命の姿に「嘘をついた姿」になる事がある、って感じかもです。

ちな別に俺は菌類が特別好きとかではないですが(しかしコケとかシダ植物は好きだ。。。)。あと補助機能がたくさんついていても、振る舞いと衝動が本質的にちゃんとつながっていればいい気はします。だけど振る舞いのうちに、生きるための嘘や、価値観の逆転(命の衝動よりも社会的なアレコレの重視)がたくさん紛れ込んでくると良くなさそうな気はします。

■生/命について その3

ひとつの見方をすると、社会的関係をもちながら生きる者たちの生は、社会的規範や倫理性や社会的関係性にある程度縛られるものと思います。それが心地よくもあるし、煩わしくもある、というところなのだと思いますが。逆に命の方は、ここまで単純ではないかもしれませんが、増殖したり維持したりという要請をもって動いているものにも感じられます。

当然、単に増殖したり維持したり、というのを手当たり次第にやるとめちゃくちゃな事になりがちなので(社会性を示す者の生存戦略として経済的でない/適切でないというか)幾分かは生の倫理性に縛られつつ、そしてその縛られる事を良しとしつつ、それだけではない命のロジックで動作する、というのが社会的な生き物のあれこれなのかなー、という気はします。

ところで三大欲求的なアレは、別に寝たくないとか食べたくないとか思っていても起きるものですが、意識のようなもののうちではそういった欲求に関せずに振る舞いたいと思っていても、結局お腹がすいたりするので、生き物はけっこう間抜けに出来てるなあ、という気もします。意識のレベルと欲求のレベルで食い違って、でも欲求が優る事が往々にしてあって、それで馬鹿げた出来事が起きたりする事もあると思います(骨肉の争いとか)。しかしそういった欲求は、ある局面から照らせば、命の現象の素晴らしさとか言われたりもするんすよね。

そういった欲求/命の衝動の裏表は多少なりとも知っていた方がいいと思うし、命の衝動だからといって無際限に善い結果を生むわけではないと思います。なんか命は単純な意味で素晴らしい、みたいな風潮がありますがそれはまた違うんじゃないかなと。少なくとも単純な意味では美醜/善悪双方の状態になるよねというか。命のようなものは、あくまで満たされているうち、バランスの取れているうちは穏やかな顔をしているけど、満たされず、バランスが崩れると鋭く様相を変えるというか。命がそういったうちにあり、また自らが起こした悲喜劇性を喜んだり嘆いたりするという意味では、命の現象/命の衝動は、それ自体でそれなりに悲喜劇的なものであったり滑稽なものであったりするのではないかなー、という気もしたりします。

ところでまた、単体として生きようとしているだけだと無害というか、環境に大きな影響を及ぼさないものが、増殖して多数になると、環境に影響を及ぼしつつ生存ゲームを繰り広げる事になり、そこで何らかの動的バランスが生じるけれど、そのバランスのうちには正負の両面がある、というのは、結構宿業っぽい話だなとは思います。仮に個々の生き物は穏やかに生きようとしていただけでも、それが数が増えると生存ゲームになって、生きられる場の取り合いになり、結果穏やかな姿でなくなるとか。俺らはどうあったとしても、そういう「生の圧力」が増減する圧力鍋のなかで適当に押し合いへし合いしてるんだろうなという気もしたりしなかたっりっす。まあ俺はそれでも生き物の営みは美しいなあと思う時もありますが。桜とか落ち葉とか好きだし。

■演繹と帰納について

生命は低温で沸騰し続けている。低温でおのずから沸騰し続けているものが生命だ。その沸騰は、沸騰し続けているから沸騰しているのであって、沸騰をやめたら沸騰しなくなる。そこに根拠はない。現象の継続しかない。俺らは根拠なく沸騰し続けている。その意味では俺らの認識は常に沸騰によって根拠付けられている、ただし沸騰し続けている間だけ。帰納には根拠がある、俺らの体験(外部との関わりの体験)だ。だから帰納は根拠にしていい。だけど演繹に根拠はない(あるいは外部を欠いて俺らの側にしか根拠がない)、演繹と帰納を結ぶグルー(膠)作用にも根拠はない。

というか演繹とか捨象とか抽象とかいうが、ほんとうは具体性から逃れることなど出来ないのではないのか??世界の具体性から、だ。あるいは操作の具体性から、だ。そこには操作/身体と世界との関係性があって、そこからは逃れられないのではないのか??そして身体と世界との関係性は、昏い領域からやってきているのではないのか??その意味で、昏さを捨て去ることなど出来ないのではないのか??最高に演繹的に、明晰に、規律的に、規範的に、語り切る事などできないのではないのか??どこかで昏い領域からの支持がなければ、捨て去れない体験からの支持がなければ、捨てられない体験という帰納的な出来事からの支持がなければ、最高に演繹的な語りなど成立しないのではないのか??

その意味で、俺らの(ときに抽象的で演繹的にも見える)語りは、俺らの生存の様式の支持なくしてはほんとうは成立しないのではないのか??(逆をいえば、俺らの生存の様式に俺らの語りの根があるのなら、俺らの生存の様式や存在の様式を語りのうちに閉じ込めて語ることは出来ない/やってはいけないのではないのか。)またそのように、閉ざして語る事をしない語り方として、意味を欠いた身振りや音というのは効果を示すのではないのか??

世界との原関係の様なものまで否定しては、それこそ何も無くなってしまうのではないのか??未生以前、あるいは死より先の、昏さのみの世界にただ還る/滅びるだけではないのか??ところでまた原関係があるとしたら、それは、視覚的なもの(あるいは遠感覚的なもの)による関係ではなく、自分自身や接触しているものの、温感、圧感、動作感、あるいは重感の様なものではないのか??そういったものがおよそ分化していない状況からあれやこれやが分化してきた、という事はないのだろうか??ある意味では名前のない自ら自身の感触から、あれやこれやが分化してきたり、あるいはそこに無数のものが訪れてきた、という事はないのだろうか??

ところでまた俺らがあれこれ想像出来るのは、俺らの存在の様式がそれを出来るだけの分厚さがあり、かつ、非-明快さ/非-限定さ/昏さから立ち上っているからではないのか??


ところで、俺らが元々ずいぶんと単純な生き物だったとして、俺らの認識の様なものがほとんど生じていないとしたら、そこにあるのは熱や養分の流れだけだったのかもしれない(少なくともそこに自己なんてもんはなかったろう。流れしかなかったろう)。それは保証されず流れている。

もしそこに認識の原型のようなものが生じたとするなら、それは流感感知をするものであったのかもしれない(流量というよりもそれは流感だったのではないか)。そして恒常性を保つための機能の原型のようなものが生じたとするなら、それは流感調整をするものであったのかもしれない。そういったものが俺らの認識の昏い部分の底の底の方にあるのなら、そういったものが俺らの底流なのだろう。

その底流はおそらく保証されず流れているし、あるいはその流れは、別の流れに繋がっているのかもしれない。はじめは何もかもが、とは言わないが、分化されず名前も持たない多くのものが、その流れを成していたのかもしれない。そういうものが俺らの根にあるなら、そういうものが俺らの根の姿なのだろう(ところで俺らがやっているのはずっと/未だに「流感の維持と展開と消失とそこへの執着や愛着」だったりするのだろうか??)。

ちなずいぶん高等な状態の話かもだけど、こんなんとかこんなんとかこんなんとか面白いっすよね。ところで単細胞生物のページに「単細胞生物には寿命が無いと思われがちだが、接合による遺伝子交換をさせないよう注意深くゾウリムシを培養するとやはり死に至る」ってあるけど、俺らは(自分自身としては)接合しない(そして有性生殖で子孫を残す)ゾウリムシみたいなもんなんすかね(`・ω・´)ゞ


家の上に土台が建ったら、色々ダメになってしまう(多分家は崩れるだろう)。そう見えているものがあるとしたら、雑にいえば(あるいは直線的な話として考えるとしたら)それは、土台の上に建った家、の上に建った土台風の何か、ではないのだろうか??


自己組織化的な流れ、トポロジカルな流れ、トポロジカルな何かを形成しようとする流れ

時間/差異を生む差異

メモ


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です