2018年12月25日 - 80

感覚について、概念/理論について

1つ思うのが、感覚というものが、おそらくはそれ以外のすべての情報(と言われるもの)に先立つのではないか、という事だ。俺らは例えば概念や理論によって世界を見て、その見通しを利かせようとする。しかし概念や理論の要素や基底になっているのは、流動的ではなくなった感覚、それなりに固定化された感覚であって、その手前には、感覚を固定化する様なアクションがある。しかしその操作的なアクションを失えば、固定化された概念は流れ去り、概念や理論は崩れ去る、様に俺は思う。例えば俺らが寝た時、酔った時、滅びた時。

ある理論や概念をかざす時、そこにあるのは固定化されきった理論ではなく「理論を固定化しようとして、またそれを組み立てて考えようとしている俺ら」であるように俺は思う。そして俺らが流動的で、不死ではなく、いずれ崩れていくものなら、あるいは不規則に崩れたり動いたりしていくものなら、そこにあるのは「俺らという流動性、あるいは俺らの生という流動性のうえに構築されようとし続けている構造物」ではないのだろうか。その意味で、概念や理論は流動的なのではないのだろうか。

俺らの生は、俺らには、感覚的にしか体験出来ない。もしかしたら生があるからこそ感覚が生じているのかもしれない。しかし俺らにとってみれば、まず感覚があり、それを通じて無数の奥行が感じられるからこそ、生がある様に認識しているのではないのか。あるいはそこで流れ込んでくるのは、自分/世界といった様に、あるいは感覚/生といった様に分け隔てられている様なものではないかもしれないが。ただ俺は「生の様式があるから感覚がある」のが実際だとしても、それが俺らに姿を現すのは「感覚があるから生の様式を感じられる」という方法をとって、の様に感じられる。

とは言え、おそらくは、生の様式や存在の様式がこの様であるから、俺らはこの様に物事を感じたりそれに反応したりうろたえたりする。その様式を通じてしか、概念や理論は形成されないように俺は思う。概念や理論がまず先立ち、それによって俺らの生や存在の様式が形成されるのではなくて。そして/しかし、その生の様式や存在の様式は、繰り返しになるけれども、俺らにとっては感覚以前には何も感じられないものでしかない。その意味で、実際がどうあれ、俺らにとっては、感覚というものが、おそらくはそれ以外のすべての情報(と言われるもの)に先立つのではないか、という様に思う。そのやわらかい流出が、俺らにとってみれば、俺らの生の様式や存在の様式を感じられるルートであって、それ以外ではない様に思える。

ところでまた、俺らには、俺らの背後は見えない。感覚の背後/感覚よりもさらに下層は俺らには昏いだけの領域でしかない。しかしそれは昏いと同時に、俺らがやってきたルートでもあるのではないか、と俺は思う。その昏さの底には、俺らの生や存在が横たわっているのだと想像するが、しかし俺らの感覚をもってしては、その底にたどり着く事はない。なぜならそこにたどり着く手前で、俺らの感覚は分解してなくなってしまうだろうから。(しかし/また、そこからのやわらかい流出こそが、俺らのものごとの感じ方の原-様式なのかもしれない。そこには少なくとも、感覚と、それと同時かほぼ同時に発生するかもしれない(感覚を発生させた)生そのものや、生の奥行きへの感触があるのかもしれない。)

ところでまた、そういった生の感触/生の奥行きへの感触、を想起/再現/現出させる情報/出来事というものがある。それはおそらく/もしかしたら、生そのもの/生の奥行きに関する情報/出来事なのかもしれない。

メモ / 暮らし方


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