2019年1月19日 - 80
メモ:感覚について
この本読みながら思った事とか。この本に書いてある事とは、自分は幾分類似したことを考えたり思ったりしている気がする。ただこの本の主張と自分の思うところとは幾分違うんじゃないかな、とも思う。
1.俺らは社会的認識によって事物を観たり語ったりする。
2.俺らが事物を観たり語ったりするとき、事物は、社会的認識の文脈に沿って幾分凝固させられている。
3.しかし俺らは社会的認識以前に、感覚の流入によって世界の諸現象と遭遇している。
4.その感覚の流入は、社会的認識が形成される前に俺らに訪れる、流動的な世界の諸相の姿である。
5.その流動性のうちに顕われる世界の諸相こそが、俺らにとっての社会的認識の緒源である。
6.すべての社会的認識(例えば規範、公理、データ)は、その流動性のうちから築かれた、凝固的に見えるものである。
7.しかし凝固的に見えるものも、流動性という基盤を失えば、その役目/意味を失う。
8.なぜなら社会的認識における意味のすべては、凝固していない生のうちでの意味なのだから。
9.何もかも流動性から顕われてくる。凝固的なものによって流動性を凝固させれば、俺らは世界と遭遇できる状況/領域を失う。
10.この様な事から、流動性を凝固させてはならない(そもそも出来ないかもだが)。世界は社会的認識のみからでは定義出来ない。
11.俺らが世界に対して出来るのは、おそらく本質的には遭遇し経験する事であって、定義する事ではない。
12.しかし世界に遭遇する時に、どの様な認識的姿勢でいるかを自ら統制する事は幾分出来るのかもしれない。
13.ところでまた、その流動性のうちにも何らかの構造はあるのだろう。
14.その構造や流れを追うことで、何らかの本質に辿り着くのかもしれない。
15.ところで、ある種の死、夢、感情の分からなさなどはそういった領域の出来事なのだろうか。
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