2019年2月11日 - 80

感覚的なものがそれなりに始原的であることについて

■Sさんとのやり取りから抜粋

さんざ数学や物理にゴタゴタ言ってきましたが、これについてこういう言い方をするなら、自分は「人間が中心にいないとおかしい」という考え方なんだと思います(これは誤解を招く言い方なので後で言い換えます)。

つまり、例えば数学における公理の様なもの、物理における検証方式の様なもの、これらはすべて「ルール」の集まりである、というのがおそらく俺の立場です。そしてルールを紐解いていくと、最後には「そのルール群/ルール系を使おう、という事にした人間」が現れると思うんです。

こういった事から、世界の描き方の手前にはルール群/ルール系の選択があり、そのまた手前には人間がある、という事なのだと思います。しかしまた、ここでいう「人間」も、ある意味ではそういった描き方で描かれたものごとの1つの姿でしかなく、別の描き方もあると思うんですね。まあこの辺は言わずもがななのかもですが。。。

そういったところを掘り下げていくと、自分は「感覚/心性がより基にある」と感じているのかもです。俺らの心性が現出/流出しつづけるその現出/流出の仕方のうちに、あるいはまた心性が消滅していくその消滅の仕方のうちに、俺らにとっての「はじまり」あるいは「はじまりに至る手がかり」が常にあるのかもしれない、という話です。

こういった「はじまり」の領域はそもそも、ルール群/ルール系も、描かれた世界も、そこからはじまったものかもしれないです。まあこの辺はまだ俺には分からないですが。。。というわけで「データや規範や公理などが基ではなく、ついでにいえば『人間』が基なのでもなく、心性がきっと基だよね」という結局アレないつもの話でしたー(/ω\)


1.俺らが決める無数のルールより以前には、俺らの感覚的/心性的な世界が始原的にある。

2.感覚的な世界はルールが決まる前の世界なので、ルールではいまいち語れない。

ところでそうなると、社会的語りも何もない感覚的な世界がある、という話になる。それは本当だろうか(社会とは、あるいは関係性とは、そうやすやすと逃れられるものなのだろうか)。ところで/しかし/それでも、俺らにとっての死、心の源流、あるいは自尊感情(の対象)といったものは、すべてこういった感覚的な世界の出来事か、それよりもさらに奥の出来事なのではないのか。。。


上記で言う「さらに奥の出来事」について。もしも「観測者は観測者自身を観測できない」という話がここでも妥当なら、(動的に/流動的に)感覚する主体は、すなわち観測者は、観測者自身を感覚出来ない、ということになる。

そういう話にすると、感覚する主体は感覚されないし、経験する主体も経験されない、ということになる。しかしそれなら「(社会的語りによって社会的に分節される前の)自ら自身」というのは、まさにその感覚も経験もされない領域ではないのか。

その領域の基底、あるいはその領域の源流から、俺らはやってきたのではないのか。その領域の沸き起こり、あるいは消滅というのが、なんらかの(動的な/流動的な/社会的に分節される手前の)俺ら自身の姿/出来事なのだろうか。それは一つの(あるいは無数の)昏いうちの嵐や炎なのだろうか。

あるいは、例えば「自尊感情」や「自己否定感」の示す「自」というのはどういった領域のことなのだろうか。

メモ / 暮らし方


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