2019年5月3日 - 80

メモ:細胞について、外乱について

■細胞について

細胞同士が溶けて混ざるということなら、食と性と死と腐敗と増殖は似ている。ある意味ではそれらが生でなのだ。血の海、泥の海。そこでの生化学的反応たち。何もかもがそういったところから始まったかもしれないのだ。それが実際の「未生と呼ばれるもの」なのかもしれないのだ。

この辺りについていえば、何もかもは細胞の話か、細胞以前の出来事たちの話なのだ。それは単細胞でも多細胞でもそうなのかもしれないし、違うかもしれない。俺らは多細胞生物という個体なのではなく、一つの群体なのかもしれない。システミックにまとまった、ある程度不可分の、しかし群体であるもの。

■外乱について

生命は、複雑な外乱だらけのところに身を乗り出して入っていく事で生きていこうとする。これが生命の1つの生き方だし、適応の仕方だし、投企の仕方だし、ある種の主体性だと言える(そこに「主体」なんて無かったとしてもだ。それは動作につく名前であって、主体なるものにつく名前ではおそらくないのだ)。事物の複雑性や外乱性を取り除き、外乱だらけのところへのアクセシビリティを剥奪するのは、生命から、その生き方を剥奪する事だ。これは外乱を排除する様な工業的農業や、危なっかしさから人を遠ざけるような過度な安全神話への要請などの話ともいえる。あるいはより楽に便利になるという事。これらは、外乱への対応と、そこから何かをつかみ取る事という、生命のある面での本質の動作を、生命から奪うものだ。

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