2019年4月28日 - 80

メモ:無用さについて

■意識について

意識といわれる状態は、おそらくは事物を定位している状態だ。それが一歩目で、それをさらに回帰的にみるようになると「認識的な意識」になるように思う。それは「定位した事物を確認している状態」だ。はじめに定位して事物を(ある程度)固定する。この時点だと事物への「確認的認識」は出来ない。その状態でさらに、定位したものを回帰的にみようとする。そうすると事物は姿を認識のうちに現す。この2ステップが崩れていくと、そこには認識的意識も、定位的意識もなくなっていくように思う。それらはそうなると解体されるように思う。しかし定位的意識以前にも、それが出来るためのなにかの礎はあったのだ。定位的意識が解体してもその礎が残る。とはいっても、その礎も解体していくものだ。俺らの認識は、確認的意識も、定位的意識も、その前段階も、なにもかもが解体し得るものだ。そこには最後は塵しかないし、もっと最後には塵もなくなるだろう。それは一時的な姿であり、運動であり、何もかもの重なりがたまさかそこに顕現しているだけなのだ。だからこそそれはある尊さがあるのかもしれない。もちろんそれは価値でも有用性でもない。いってみれば希少性だ。無用な希少性といってもいい。それは何もかもにいえることだ。あるいは俺らの生命の本質だ。無用な希少性であるという事は。

■意識について、夢について

俺らは事物を定位する。それが「意識という状態」だ。多分/もしかしたらね。だからこそ俺らには自覚がある。ところで俺らの生が夢ではなく現実だということをいえるものがあるとしたら、この自覚なのだ。定位しているという感覚なのだ。もしそれがなく、なにもかもがただ流れ去っていくだけなら、それは自覚なき生であり見ているだけの夢だろう。俺らの生は、ある意味では夢と区別はつかないが(たとえば胡蝶の夢のように)、しかしそれを現実なるものにし得るものがあるとしたら、それは流れ去るうちで溶けるように生きるだけではなく、事物を定位しようとする努力とそこで起き得る自覚のうちに現れる無数の葛藤なのだ。その自覚がいつか滅び崩れ去るとしても、その自覚だの葛藤だのだけが、いつか崩れ去る生に現実性を与える努力/闘争(ここは英語になるけどstruggleといいたい。この単語すげえ好き)なのではないのか。

■無用さについて

俺らの生は、あるいは死は、無用であるように思う。それはただ単に、(定位と確認を繰り返し生じている)生化学的現象というだけであって、なにか特別な価値や素晴らしさや有用性や優位性があるものではないように思う。その生化学的現象の世界はずいぶんと楽な世界だ。そこには欺瞞がない。生命は、事物のように、ただ生じ、ただ生きて、溶けて、滅びて腐っていく。そういった、ある意味では死にちかしい状態/ある意味での欺瞞のない状態へ還ろうとして、俺らは時々、あれやこれやに彩られた生にうんざりしたりする。とはいっても、その彩の一部には、けして欺瞞ではないものがある様にも思うが。それは一つには愛着であり、あるいは一つには愛情であり、あるいはそれらが失われた状態としての憎しみや哀しさだ。しかしそのような事から、虚飾を含めた無数の彩りが発生していくのもそうなのだろう。それらは肯定したいものだ。なぜなら無用な生化学的現象であること以上の、おそらく重要であろう何かが、そこにあるような気がするからだ。とはいえそれは時に、あるいはほとんどの場合、煩わしく面倒なものなのかもしれないが。それは、ただの生化学的現象かもしれないものが愛だの憎だのをごてごてと引っ提げていて、ずいぶんと間抜けで哀れなものかもしれないが、しかしそういった「定位されたから生じた新しい感触/手応え」のなかに、ただの生化学的現象では起きえない、一つの本質が顕現したのかもしれない、というのもまたそうなのかもしれない。情報。重なり。ただの生化学的現象には情報はないのだ。そして/しかし、情報は生化学的現象のはじめから、色濃い影のように/つきまとうようにあったのかもしれないのだ。つまりただの生化学的現象が、プレローマの事物からクレアトゥーラの事物でありはじめたその境目/はじまりから。(ところで情報を情報とするのは志向性なのだろうか。つまりある志向性にとって、これは良くてこれは悪い、これは受け入れ易くてこれは受け入れ難い、という区別からそれは始まるのだろうか??もしそれかがそうで、またはじまりの生化学的現象が自己創発的振る舞いや恒常性維持的振る舞いをわずかなりとも示していたのなら、そこには原初的志向性が発生しているともいえる気がするから、諸々が噛み合ってくる気もする。自己創発的振る舞いは何らかの成就への、恒常性維持的振る舞いは姿への愛着の志向性が。)

■希少性について

ところで、もしも生が死に対してなんらかの優位性(?)があるとしたら、それは構造的希少性においてのような気もする。つまり、よりランダムではない構造的な状態が生成している、という事においてだ。とはいえ、構造性をみることをやめるなら、そこには生というある分子や原子の配置と、死というある分子や原子の配置があるだけなのかもしれない。生が死にまさっているという事などそこにはなく、それらの価値は等しいのだ。もちろん/もしかしたら生には生の価値があるのだろう。とはいえそれならば同様に、死にも死の価値があるのかもしれない。俺は死の価値を今のところ明示的には経験してはいない気がするので、それがどういうものかを体験として語るのは出来ないのかもしれないが。とはいえ、俺が時々(いつも??)緑の多いところにいこうとするのは、一つには、人間が語る生の価値が横行する場所ではない場所に行きたい/いたいと思うから、というのがある気はする。生には生の価値があるのかもしれないが、その価値だけで生きていたいと常に思えるほど、ものごとは単純ではないように思う。生命はときおり、生命のカタチである負荷から解放されたがるようにも思える。あるいはヒトが、人間的生のカタチである負荷から解放されたがるようなだけかもしれないが。なぜなら生にまつわる何もかもが伸長/展開と緊縮のバランシングの、柔らかな(あるいはときに硬質な)緊張の最中にあるのだから。そしてまた、生に溺れることや、生に溺れる/生に溶ける/生の営みのうちに溶けるうちに死ぬことが望まれる事があるのも、もしかしたら同様のわけなのかもしれない。生が本質的には弱いものであるにも関わらず、緊張が強い事が、あるいは生きた世界で生が強くあろうと試みる事が、一つの/すべてのわけなのかもしれないのだ。(それは元はといえば強くあろうとしたのではないのだろう。ただ広がったり大きくなったり増えようとしたり交わったり混じったり生きようとしたりしただけなのだろう。)生の否定は、時に、生の負荷から逃れがたい生にとっては、定位のない生化学的現象への還元や、ある種の解放や、楽さになるのだ。

■生命について

無数の事物や流れに影響をされながらも、ある程度まで自律的に自ら自身の流路を形成していくのが、生命の特色だ。そこを流れるものは、ただの養分や水分ではない。その動的状態の継続と、そこで起きる葛藤こそが、生命の姿かたちを織り成す、生命のうちでの生と死の出来事なのだ。

メモ / 暮らし方


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