2019年5月30日 - 80

メモ:解体とコミュニケーションについて

ここに書いたような解体的な出来事が、実際その様な姿で起きているかは俺には分からない。それは違うかもしれない。ただ1つこれは重要だろうと俺が思うのは「私たちの根への理解や語りを含んだ語りは――それは本来的にはすべての語りがそうなのだろうが――、昏さを含むゆえに詩的にならざるを得ないように思う」と書いた事だ。

俺が書いたような話がある程度妥当だとするなら、俺らの認識はそもそもら「私たちのうちには、私たちの生や認識への、認識論的な『(確固とした)支持面』はない」という状態から生起したのであって、それ自身を確証あるいは立証するなにかは無いものだ。

そういったところから形成される認識や語りや声といったものは、すべて確証あるいは立証するなにかを持たないものであって、それ故に、体験的な認識、体験的な語り、体験的な声以外ではないものだ、と俺は思う。いってみれば「私たちは○○である(例えば人間、例えば生命、あるいは全ての全体主義的要素。あるいはすべての「客観的前提条件」)」といった言明は、そこでは全て無効となるものでしかないところから、俺らの世界認識は生起したのではないか、という話だ。

それは全ての全体主義的な語りが出来ない(例えば「私たちは同じ○○じゃないか」といった語り)、あるいは「客観的前提条件」からの語りが出来ないという意味で、一つの孤独さなのかもしれないが、その孤独さから始める事が、おそらくは真っ当に物事に関与しようとしていくやり方のように、俺には思える。

そういったところから始め、それでもなお何らかの事を導通させていこうという試みが、コミュニケーティブといえる試みのような気もする。そしてまた、そこでの孤独さは、単純な孤立とは異なるような気もする。なぜなら認識の基底を通じて、事物の無数の働きに繋がっている様な感覚が、そこで失われるわけではないようにも思えるからだ。

それは孤独というよりも、例えば、意味の布置をもてない声や身振り、のみしか伝達手段がない状態と同様なのかもしれない。とはいえ俺らはおそらくそもそもそうだったろうし、本質的にはいつだってそうであるような気もするけれど。ところで、そういった世界でのコミュニケーションとはどういったものだろうか、あるいは何だろうか。


認識は、自身を認識しながら他を認識する訳ではおそらくない。認識されるものしか、認識は認識できない。認識自体を、認識は認識できない、おそらくは。

だからおそらくは、光や熱や音は、認識が通過し続ける体験そのものなのだ。それは脳のなかの小人がどうこうであったり、脳のなかのスクリーンに投影されてどうこうではおそらくはないのだ。

認識が認識できない認識自身の姿が、そういった体験を受け止める底なのだ、あるいは振動板なのだ。おそらくは。

メモ / 日々


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