2019年9月15日 - 80

永遠について

幼少期は夕方の草むらなどが好きだった(というかずっと好きだし今でも好きなのだが)。先週は仕事で非常にうんざりする事があり、ぐったりやさぐれて赤羽に行ったところ、秋っぽい気候で、夕方の草むらがあった。ああ、俺はここに永遠をみていたんだな、と思った。

そこには草があって昆虫があって風があった。光(それも翳っていく赤い光)があり影があり、草と草のあいだの空隙の多い空間があった。そこには俺にとっては、生の豊かさと滅びがおだやかに交錯する広がりだったのだろうと思った。それはひとつの永遠だ。それは翳りのなかに消えゆくことで、生の光が素晴らしいものであることも、それが翳りにのまれていくものであることも、浮き彫りにする。あるいは自分もいずれは翳りにのまれていくであろうことも。それは滅びの匂いでもあるが、生の火の熱の感触でもある。まあ永遠と形容できるものなんて、以外といくつかあったりするものなのかもしれないが(例えばランボー的な永遠は好きだ)。

その後育った家にいった。そこは公園が目の前で、木に囲まれた場所なのだが、そこでまた「俺はここにいたとき、永遠の『うち』にいたのだな」と思った。ところでまた、今仕事で一次産業にかかわっているのも、一次産業に思い入れがあるというよりも(それなりにありはするのだが)、そこが、俺にとっての永遠と近しい場所/働き方だからなのだろうと思う。

日々


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