2019年10月1日 - 80

意識のようなものについて

1つ思うのが、ある刺激から発生した言及的ループがあるとして(神経系でもなんでもいい)、

それが刺激によって立ち現れている部分の比率よりも、

言及的ループの部分、もっといえば自己言及的ループの部分の比率が増せば増すだけ、

それの一見したところの自律性は高まるように思う。

なぜなら自己、に、言及するループ、の比率が高まるのだから。

しかしまた、非自律的に立ち現れてくる部分がなくなるわけでもない。それは根であり、逃れえない。我々は最終的に、完全に自律的にあり得るのではない。

そして/しかし、そのループは解体する。

いずれ、刺激によって立ち現れている部分だけになり、

その部分もなくなれば、消失する。

これが意識のようなシステムの発生であり、

またその死であるような気がする。

ところでまた、神経系だけがフィードバックループである、わけでは当然ないだろう。

例えばそこには湧き上がる様な内分泌系のうごきも、血流や筋のうごきもふくまれるだろう(個人的感覚からいけば、神経系よりも内分泌系の方が、願望や欲望にとっては重要な気もするが。。。)。

あるいはそこには、広義でいえば、身体だけでなくその周囲環境も含めたフィードバックループが含まれるのだろう。

それは開かれ、また解体と隣り合わせになっている。


たとえば内分泌系(あるいはもっと広義の生化学的反応)の偏りや攪乱や閾値オーバーがある衝動や混沌や緊張であるとしても「それを自覚/感覚する部分(例えば神経系)」がシステムになければ、欲求や欲望はどこにもないだろう。つまりここで俺がいっているのは「衝動」と「衝動の自覚/感覚」は異なり、「欲望とは、衝動それ自体ではなく、自覚/感覚された衝動であったり、その感覚を自覚したもの(つまり欲望の自覚こそが、欲望の発現地点だ)」という事だ。

ここでいう神経系は、ここでいう内分泌系と、論理階型を異にする。あらく言えば、神経系の方が論理階型が上だ(ところで神経系は身体中に張り巡らされているのに、なぜ脳神経系ばかり取りざたされるのだろうか)。だから神経系で扱われる欲望は抽象的なものだ。それは内分泌系の動きを欲望と読み替え、それを自身のネットワーク内に、いえばブロードキャストする。ブロードキャストされた自覚は、ネットワーク内を何重にもループし、自己言及的に織り重なり、ネットワーク内の無数の別の自覚と混ざり、意識のようなものを形成する。あるいは意識のようなものの姿の一部となる。

ところでここでいう神経系は、(この言い方は好きではないが)時間的にも空間的にも広がりをもっている。それは時間や空間などと区別できるものではなく、一つの/無数のシーケンスであり運動群だ(極端にいえば、生命にとっては時間と空間は区別はなく、それは運動群にとっての広がりや、広がり可能性というだけだろう)。だからそこには、世界が構築され得る。それは、無際限ともおもえる組み合わせや広がりを持ち得る、自覚の束の世界、あるいは元々は自覚だったものの断片の束の世界だ。

そしてそれは/しかしそれは、解体に連なるものであり、おそらく(無数の方向に)開いている。無数の方向とは、例えば内分泌系に、そして視覚や聴覚などの感覚に、あるはキネシクス的な感覚に、あるいはそれ自身の解体や、それに連なる無数の事物の解体に。俺らはある/無数の衝動や、ある/無数の開きへのチャネルから成る、自覚/感覚の束なのだ。そしてその束は、一定程度に自己言及的であるという意味で、一定程度に自律的であるようにも思える。。。

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