2019年10月11日 - 80

意識について

1.感覚している事を感覚するシステム。つまり「感覚を自覚する」システム。

2.1が何重にも連なるシステム。自覚を自覚するシステム、自覚の束そのもののシステム。逆にいえば、自覚の束がほどけていけば、解体していくシステム。

3.「いちばん初め」は、自らの力に拠って起動したのではないシステム。根を自らよりも深い領域にもつシステム。

4.一度「自覚の束」つまり「自己参照フィードバックループ」が出来てからは、外力ではなく、その自覚の束自身を参照しながら動くシステム。

5.かといって、自覚の束のうちに完全に閉じているのではなく、感覚器や「根」からの外乱も受けながら、その流れのなかで動作するシステム。

5はまだ微妙だけど、全体的にはだいたい合ってる気がしてきている。それは台風の目に似ているかもしれない。それは初めはなく、徐々にシステムが出来ていくうちで、姿を成していく。

wikiの熱帯低気圧の(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E5%B8%AF%E4%BD%8E%E6%B0%97%E5%9C%A7)の「発生から消滅まで」を参照。

それは姿を顕しながら、自己参照しはじめる。自己参照は徐々に明瞭な形を成していく。姿を成しながら自己参照できているあいだは、自己があると思いこむ。しかしそれはいずれ姿を失い、解体/霧散していく。。。それは初期/初動の力をトリガーとした、力による産物であって、力を失えば、その姿も失われる。たとえその姿が、力とはかけ離れたように見えるものになっていたとしても。。。

自己参照の行き場を、そういったシステムは求めているのだ。あるいはもしかしたら、初期/初動の力の行き場を求めているのだ。それが餓えなのだ。

そういったシステムは、原初の力を、そして原初の力から形成された自己参照の束の行き場/それが落ち着くところ、を求めているのだ(ある意味では、居場所とは、そういうものだ)。そして原初の力も自己参照の束も、いずれ解体し、塵になるのだ。

そういったシステムに名前はない。俺らには本質的には名前はない。夢のようであり陽炎のようだ。無時間的なシステムとはそのようなものだ。記憶も時系列ではなく、シーケンスの連なりになっている。しかしそれが俺らの生でもある。。。

俺らは初め、まったくプログラムされたようなシーケンスで形成/動作しはじめるが、徐々に自己参照フィードバックが形成されていくに従い、規定の力学に従うだけではなく、自己の内部状態/システム状態を参照するようになる。とはいえ自己なるものには欲望も含まれる。それの根は、規定の力学なのかもしれないし、そうではないのかもしれないが。それは生まれようとしたり、生まれようとする前の状態に戻ろうとしたり、落ち着いたり、貪ったり、休んだり、崩れたり、増えたり、大きくなろうとしたりするものかもしれない。もちろんそれだけではないかもしれない。いずれにしろそれは、個体という、いってみれば連続する生命/生化学反応群の独立した断片としての、多くの方針と報酬の絡み合いかもしれない。その断片には名前がない。そこには本質的には力/エネルギー/系しかない。

それはある意味では台風みたいなものだ。台風に、本質的に、名前があるだろうか。そしていずれにしろ、俺らは、1つの夢として、あるいは夢の断片として、俺ら自身の要望や欲望とは(ある意味では)無関係に駆動する世界を生きることとなる。無関係というのは、台風の名称と、台風そのものとの関係のような話だ。それは関係がないと言うより、論理的な紐づきをもたない。しかしそこに、生の歴史と系とはもちろん絡んでいる。脈絡のなさ。ある種の理不尽さ。唐突さ。そういった無関係さだ。。。

メモ / 日々


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