2019年10月16日 - 80

夜について

夜の事物や光景は、そういった事物が、あるいは我々が、あるいは私自身が、意味ではない世界と地続きであることを教えてくれる。

我々には3つの選択肢がある。1.本来的な意味ではない世界の存在として、意味ではないものとして生じて消え去ること。2.意味の系(たとえば有用性)のうちに摩耗して、すり減って消え去ること。3.1でも2でもなく、本来的には意味ではない世界のものでありながら、意味の世界を生じさせてきたような、そのような生のうちに消え去ること。

仮におのずから生成と崩壊を繰り返すのが世界の姿だとして、それが生や死の連続性だというのなら、我々は、死を自覚し恐れたときから、その連続性から切り離されたものとなる。そのような「自覚するもの」が、連続性に対して自らをあらためて差し向けられるような姿を、あるいはそういった姿にしてくれるものを、我々は幾分か求める。

個体は、生命の連続性のうちにいながら、それを体感しながら、しかし自らは連続していくことができないものだ。自らは断絶するしかないものだ。そこでは、生や連続性ではなく、存在についての問いや要請が生じ得る。なぜなら我々は連続できずに、この存在として、死ぬしかないのだから。我々の問題は、生の問題ではなく、(生を、そしておそらく死を前提とした)存在の問題なのだ。あるいは存在におけるコミュニケーションの問題なのだ。


私たちは、存在などという固定的なものではなく、つねに動的なコミュニケーションが姿をなしているだけのものかもしれないのだ。脳の記憶は無時間的で連想的で断片的だし、神経回路網は閉じている。そして/しかし、私たちの感覚や感触の斑点は、流動的に姿を変え続ける。

この変わり続けるものが私たちであって、私たちがなにか固定的なものなのではないのだ。痛みがないとき、我々は痛くはないのだ。温かい感情がないとき、我々は温かくはないのだ。まったく我々の姿は陽炎のようだ。この身体(と思っているもの)も、触感が失われ、内部感覚が失われ、視覚や聴覚が失われ、感情や情動が失われたのなら、霧散するのだ。我々は何か固定的なものではなく、そのように感じられたものの揺れ動きなのだ。

感覚は根だ。我々は根より深いところを知ることは出来ない。。。なぜ感じられるのかを、つまり第一義的に与えられるものが訪れる理由を、俺らは本当には知れない。訪れるものはいつだって流動的だ。陽炎や幽霊のようだ。それは本当には語れない。それより前に言葉はないのだから。。。

俺らが知るのは、何らかの動作導感に伴う動作感であり、そのフィードバックの束の学習であって、それ以外ではないのだ。根のはかなさ、寄る辺なさは、夕方や夕日に似ている。。。俺らの感覚は、緒源としては光の明瞭な世界のものではなく、影や影絵のような世界のものなのだ。それは上っ面ではないものだ。しかしまた、ある種の上っ面でもあるのだろう。。。

メモ / 日々


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