2019年10月28日 - 80

生化学反応について

化学反応、あるいは生化学反応に、目的はあるだろうか。理由あるいは原因、あるいはそれが起こる構造や配置や勾配はあるだろう。例えばある力学的勾配を打ち消すこと。ある結び付きに引き寄せられる事。ある散逸に至る事。などなど。。。それは目的なのだろうか。なんらかの意図を以って、その現象が、それに至ろうとしているのだろうか。私はそういう訳ではないように思う。なぜそう思うかは説明できないが。。。言えるのは、それらは自然(じねん)であって、意図や画策ではないように感じる、という程度だ。

生が生化学反応の束であるならば、それならば、そこには目的はない。生は、あるいは私たちは、いずこよりか来たり、いずこへか還る、その(昏さからの/根からの)生滅のうちを、ある期間、反応し、迷い続けるだけの熱に過ぎない。。。私たちが迷うのは、私たちに目的がないからだ。少なくとも1つはそれが迷いの訳であるように、私には思える。

それとは別に、私たちには執着がある。生への執着や、より良いものへの執着。前者は少なくとも、ホメオスタシス的だと思える。ホメオスタシスとは、きれいなものではなく、ある状態範囲のうちに留まろうとし、それを妨げるものを分別し、排出し、あるいはその状態でいられるためのものを貪るような有様の事だ。それは一つの浅ましさなのだ。

より良いものへの執着。これはホメオスタシスよりも複雑なのだろう。そこには、生にまつわる言葉でいえば、性や死も纏わりついている。破壊や融合や新生がそこにはある。それは維持とは異なる方向性、様態だ。。。それらは相反し得る。しかしいずれにしろ、個体ではなく、命そのものの存続のためにそれらは有用であり、その意味ではおそらく、それらを起こすための行動をとる事は、なんらかの報酬が私たちに与えられるものなのだ。。。あるいは最終的には、それら自体が存続という報酬なのかもしれないが。

そこには目的はない。そこにはむしろ迷いと熱がある。しかし命は、長い目でみれば、浅ましさや破壊や新しさを抱えたり帯びたりしながら、断続的に、存続し続けようとする。それはより長い目でみれば、単なる熱の放射、熱の消尽なのかもしれないが。。。しかしそこには奥行きがあり、豊かさもあり得る。少なくとも命が存続していくあいだは、それらは展開していっている。。。


いずこより来たりて、いずこへか還る、というところは、おそらくは私たちには知りようがないところだ。それは私たちの認識の生じる以前の世界、私たちの根、私たちの昏さなのだから。。。

私たちはおそらく、私たちが認識的に知りえないものと繋がっている。私たちはおそらく、私たちが認識的に知りえないものを根にしている。。。


ところで執着とは、例えば生への執着とは「反応しかしない系」ではおそらく生じない。そこにはバランシングの機構がない。執着を起こす系は、バランシングの機構がある系だ。例えばナトリウムやカリウムの不足、水分の不足、熱の不足、などなどを補おうとする作用や行動。こういったもののためには「監視」のような複雑なものでないにしろ、なんらかのバランシングの機構が必要となる。つまり「これが無い」「これが足りない」「これが多い」などと知らせたり表現したりするものだ。もちろんそこには具体的な過多物や不足物は現れてこないかもしれない。それはただ単に、飢えや壊死などのカタチで現れるだけかもしれないが。

いずれにしろ、執着を起こす系とは、その時点の自らの状態と、ありたい状態範囲と、その差分とを、アバウトであっても感じ取れる系であるように思う。ところでまた、ありたい状態範囲とは、未知の音ではなく、残響音かもしれない。それは私にはまだ分からない。。。

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