2019年10月29日 - 80

意識について、洗い桶について

身体が損傷しても意識はある程度までは明瞭だ。2つは別のもののようだ。という印象について、自分は以下のような事を思うところがある。

浴槽に水(A)をはり、そのうえに洗い桶を浮かべる。洗い桶には少し水(B)を入れておく。ここで浴槽の水Aに赤い染料をたらす。水Aは赤く染まるが、洗い桶のなかの水Bは赤く染まらない。

意識と言われるものは、このように、物理的あるいは化学的な方法で、ある程度、身体の他の系と切り離されているのだと思う。そして、ここでいう洗い桶は何層もあるかもしれない。浴槽のうえの洗い桶、のそのまた中に小さい洗い桶があるかもしれない。そうなれば、浴槽に異変がおきても、一番うえの洗い桶にその変化が何かを至らしめるところには、すぐにはならない。

ここでは洗い桶はインターフェースであって、ただの枠ではない。より根となる領域と、より上の領域とを接続するインターフェースが洗い桶の役割だ。これがあるからこそ「上の系」は「下の系」と接続されつつ、幾分閉ざされた姿になり得る。例えば身体においては、肉や骨が浴槽の水Aで、中枢神経系が洗い桶の水Bかもしれない。インターフェースたる洗い桶は、末梢神経系やホルモンかもしれない。

もし「中枢神経系が、自らの感じるところを(残響的に/多重に織り重なった姿で)感じる」ことによって、意識が励起してくるのだとしたら、そのような姿で、意識は、身体と、隔絶しつつ繋がっている、ようになっているのかもしれない。それは隔絶しているがゆえに、隔絶している程度に、独立的であるかもしれない。最終的に私たちが、生化学的、電気的、熱力学的な存在であるとしても、そのように隔絶しているがゆえに、意識は、生化学でも電気でも熱力学でもない動き方、振る舞い方をするのかもしれない。そしてまた、そのように繋がっているがゆえに、最後は生化学的あるいは熱力学的に、解体-散逸していくのかもしれない。


私たちはある意味で、攪乱され、定常的なパターンを崩され、通常は隠れている深い機能や感覚が顕れるのを望んでいるように思う。


全然話変わるんだが、承認欲求ってあるけどさ、あれ称賛されても満たされないと思うんだよね俺。承認と称賛て多分違うと思うんすよ。承認されたいのに称賛されるための行動していたら、いつまでも欲求は満たされない気がする。称賛って派手で目立ってそうだけど、承認ってもっと地道で地味なもんやなかろうか。

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