2019年11月8日 - 80

変換について

結局、我々が望んでいるのはある種の変換に他ならないのかもしれない。

光エネルギーをエネルギー源として、光合成が行われ、植物が活動する。そこから、あるは地熱やあれやこれやの物理的エネルギーを源として、生化学的エネルギーを生成し(変換し)我々は「生きて」いる。

生はエネルギー変換の過程の継続/連続であって、ある意味ではそれ以外ではない。

そして我々は、我々自身がある状態に変換されていく事を良しとする面がある。それはつまり、あまりにも納得いかない訳ではない消え方、を良しとしている、という事になる。

我々はおそらく、我々自身(という、光などの物理的エネルギーから生じた陽炎)を、何らかの状態や姿や使途に変換したいのだ。おそらくは、生の永続性ではなく(あるは生の永続性「だけ」ではなく)、望まれる形での変換を望んでいるのだ。


余談だが、生の永続性(あるいは一種の維持/ホメオスタシス)を望むのは、浅ましさそのものでもある。しかし浅ましさは、ある面では醜く、またある面では愛おしいものでもあるのだ。我々は互いにそのように醜く、そしてそれ故に愛おしいものでもあるのだ。

そしてまたおそらくは、永続性が生や性に関連しているように、変換性は性や死にも関連している。。。生、性、死。これらのすべてのが命と呼ばれる不可思議な活動群の総称/総合的な姿なのだ、おそらくは(少なくとも性のあるような、我々のようなタイプの生き物にとっては)。

あるいは変換というよりも、純然と、無駄に消尽されていく死/滅びを望んでいるのだろうか。なぜならば、無駄な消尽こそが、最も「理由」から離れた、生の使い尽くしとも思えるからだ。


「変換のエンジン」であったり、そこを潜り抜けていくエネルギー、という姿が、我々のコアの姿なのだろうか。

あるいは、我々は、つねに変換/消尽を望むものなのだろうか。あるいは我々は、なにに魅かれるのだろうか。累々とした死、そのなかの一条あるいは数条の生、変換方式としての性、そのなかで何らかのものに魅かれながら消尽していくエネルギー、そういったものが我々の姿なのだろうか。

あるいは根の国で起きていた事を何度でも再現しようとしているのだろうか。維持という表層的なものを捨てて。なんらかの合成反応であったり分離反応、の繰り返しを。

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