2020年1月14日 - 80

無限、無際限、認識について

そもそも認識は、無際限かもしれないもの、無限かもしれないものに臨んでいる。というのも感覚情報は、あくまでもただその時の上っ面の情報が訪れるだけであって、その先に、その奥に、どういったものが広がり、息づいているのかを、特に具体的に知らせるものではないからだ。

そういった訳で、我々は、常に、無限かもしれないものや無際限かもしれないものに向き合っている。それが無限や無際限に感じられないというのは、我々の感覚が、その「変化しないであろう」状況に、鈍磨して慣れたからであって、次の瞬間に何が起こるかという可能性と、我々の鈍磨とは、本質的には関係がない。次の瞬間に何が起こるか分からないし、奥行きに何があるかも分からない状況に我々は常にいるのだ。

その意味では、示唆には「変化しなさ」を示す示唆もあるわけだ。そして我々の日常は、ある程度多くのそういった示唆/シグナルに満ちているのだろう。それは我々の住まう世界が限定的で変化しづらいものだ、という可能性(が高確度である事)を我々に伝える。我々は、本質的には無際限かもしれず、無限かもしれない状況にいながら、「変化しないであろう」というシグナルを発する示唆によって、無際限への可能性へのアクセシビリティを、暫定的に失ってしまっている。これはしかし重要な事だ。何もかもが変化するかもしれない世界で、生命が生きていくのはおそらく相応に難しいからだ。

そしてまた、示唆は、そこに奥行きや無際限さがあるかもしれない、という事を示す。あるいは際立たせて示す。我々は本質的には無際限かもしれないものとやり取りをしている。我々は外部の認識者に対して、無際限的なものに擬態して振る舞う事が出来る。コミュニケーションとはそもそも、無際限的なものに臨んでいる状態における、振る舞いや伝達可能性や伝達の試みの姿なのだ。そこには命題はない。命題が唱えられるよりもずいぶん手前の状況に、私たちは感覚器官を向け、そこの動き/可能性/無際限かもしれなさ、に臨んでいる。我々にとって、おそらく妥当な振る舞いは「世界が無際限かもしれない」「その奥行きで何かが動いたり、何かが生じるのかもしれない」などと思って世界に臨む振る舞いであるように、私は思う。

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