2017年8月14日 - 80
ベイトソン読み返し(精神と自然) その4
■「Ⅳ.精神過程を見分ける基準」について
〇「基準1―精神とは相互作用するパーツ(構成要素)の集まりである」について
控えめに言って最高。ただ出来れば「俺らが想像し得る『全体』とはどういったものか」についてもっと言及して欲しかった。一応「それで?」で「それが究極的にトートロジーかどうかも(中略)内側にいる私には分からない」と書いてているけど、でもそうかなー??って俺は思う。内側にいても全体は想像できないのだろうか??論理的に矛盾するとかそういう事は置いておいてさ。すごく怪しい例えを持ち出せば「この修行で宇宙の姿を感じましたあああああ(*´艸`*)」とかいう宗教体験(笑)は、しかし内側にいつつ全体を想像した、というような出来事のようにも感じられる。まあ怪しさ満点でアレなんですが(*´艸`*)
〇「基準2―精神の各部分間の相互作用の引き金は、差異によって引かれる」について
ちょっと良く分からない事ある。ただこれは俺がイメージ出来てないだけかもしんない※1。この部分は、ベイトソンの描く世界に深く踏み込んでいくステップになっている。分からない事あるとはいえ、ここも素晴らしい。「基準3―精神過程はエネルギー系の随伴を必要とする」も踏み込みのステップって感じ。
※1:俺が、ベイトソンのいう「エネルギー系と情報系の区分け」がいい姿で出来ていないだけかもしれないし、ベイトソンが同一性と差異について片手落ちの扱いをしているからかもしれない。今の俺にはどっちか(あるいは両方か)分からん。あ、ただ視覚や触覚が「継続する」事については、基準3でいっている「蹴られたイヌが、イヌ自身の物質交代から得たエネルギーをもって反応する」とある様に「目を運動させる身体のエネルギーによって基準動作を行う目、のその基準、に対して現れる差異としての視覚現象」であったり「皮膚や筋肉を運動させる身体(例えば血流?)のエネルギーによって基準動作を行う皮膚や筋肉、のその基準、に対して現れる差異としての触覚現象」がある、と捉えるなら、それは俺にはそれなりに分かりやすい。そこには「基準をもった差異」「基準に対して示された差異」があるからだ。基準のないとこの差異ってのは、少なくとも今の俺にはよく分からないんで(/ω\)そして何度も書いてきた事になるが、その「基準としての自己」がある(それが実は動的だとしても、ある程度はその動性が隠蔽され続けるような)というところに、俺らが自身を当事者と感じ、生きていると感じるところはあるのだろうと思う。これは単純にいって合っているかは分からないが、しかし当事者である実感をもって生きているという事を多少なりとも描写出来るという事は、ただ単に俯瞰的な描写しか出来ないより1000倍マシだと思う。もちろん俯瞰的な描写は重要だ。しかし当事者としての描写を欠くならそれはむしろ(生の隠蔽や主体の隠蔽などの)害悪にすらなると俺は思う。
〇「基準4―精神過程は再帰的(またはそれ以上に複雑な)決定の連鎖を必要とする」について
「岩石はいわば変化を受け付けない。(中略)これに対し生物は、変化を修正する、変化に合わせて自分自身を変化させる、自らの中に永続的変化を編み込む、等の方法によって変化を逃れている」という記述は生きたものの本質的な姿の一面をよく表していると思う。ガバナー等の動作の記述はグレート。そしてガバナー等の記述の後半にある「その記述が一巡りして(任意の)出発点に戻った時、この記述形式に突如変化が生じた」とあるが、これは俺には、ロジカルタイプとは「直線的に/直接的に観察される何か」なのではなく、くるっと一回回った時に「浮かび上がる/浮き彫りになる何か」である、という風に捉えられる、という記述にも見える。それは俺に言わせれば、やっぱしある意味での(直接的な何かではない)幻想だという事だ。それがそうなら、それは世界に奥行きと、触れ得ない何か(しかし情報的には確かにありそうな何か)とをもたらしえるものではないか、という様にも思う。
〇「基準5―精神過程では、差異のもたらす結果を、先行する出来事の変換形(コード化されたもの)と見ることができる」について
「いわゆる”外界”におけるいかなる物体も出来事も差異も、それらに応じて変化するだけの柔軟性をそなえたネットワークの中にとり込まれさえすれば、情報の源(ソース)となりうる」というのは、精神の一面を極めて明確に描写していると思う。例えば連想、例えば夢、例えばふと思い出すような記憶、等々。そこからコード化に踏み込んでいくのがまたグッド。傍系エネルギー源の記述もグッドな気がする。「生態系は、回路の一周目と二周目における出来事の差異を自己修復プロセスにおける決定的な要因とするアナログ・システムである」という予想は、大雑把な記述であるけれどもやはり生態系の一面を捉えたものであると思う。
そして後半、直示的コミュニケーションについて、また「部分に全体の情報がこもる」事については、入り口としてはとてもいいと思う。
ただここでベイトソンは「われわれの生活の中では、知覚は恐らく常に部分の知覚である。部分を知覚して、そこから全体を推測する。そして、後に他の部分が提示されるに及んで、その推測が確証されたり崩れたりする。われわれの前に全体が提示されることはあり得ない。全体が提示されるには、情報が変換されないコミュニケーションに依らなくてはならない」と記述している。
これは本当に合っているのだろうか??少なくとも思うのは、何かが伝わった、と感じる時に、その確証を得るための手がかりとなるのは、その情報の全体が提示されたか/受け入れられたか、という事よりも、その出来事における伝導率/伝達率のようなものが極めて高く感じられたかどうか、という事ではないのか、という事だ。
俺らが「部分」を知覚するとして、では逆に尋ねてみたくなるが、「『俺らが得た知覚の全て(それによって形成される奥行きを含む)』が『俺らにとっての全体』」という事にはならないのだろうか??ベイトソンはどこから何を見て「(上記でいうところの)俺らにとっての全体よりも大きな『全体』があるだろう」といっているのだろうか??そうなると「俺らにとっての全体」から感じられる情報のトータルトルク※1の伝導率/伝達率あるいはロス率がどうか※2、という事が問題になるのではないのだろうか??
※1:トータルトルクの意味分かんないで使ってるかも。俺の中では、ある機構の諸々の部分の力積を総合した出力、というイメージ。間違ってたらすまん。
※2:それとまた、メッセージ/情報の力積※3が、ちゃんと伝わる形になっているか、という事も(当たり前ぽいが)重要な事ではないかと思う。
※3:力の比喩を出すのはベイトソンは嫌がりそうだが、例えばなんだが、身体のようなものを持ってる俺らが「大きな獣が目の前に来て迫って襲ってきた」という情報を得た時、そこに何らかの圧や熱を感じたりすると思うんだが、それはどういう事なんだろうか。ただの思い付きレベルだが、メッセージのネットワークと物理学的なつながりが違うとしても、メッセージのネットワークは自己自身を、ある意味ではボリュームや熱や圧を帯びたもの(もちろん物理的な、ではないとして)と捉える、という事はあるのだろうか??それともそれは単なる(ベイトソンのいうところの)コード化の問題なのだろうか??(どうもベイトソンからはこの辺が抜け落ちている気がするんだが。。。まあ彼の考察の方向性的には「生命世界全体の動作」を追っかけてるから、こういうのはすっ飛ばしていい問題とかなのかもだけど。。。)
ちょっと自分で整理し切れていないが、この辺りの記述はもっと深く追わなくてはならない出来事がある気がする。俺にはここにあるだけの記述でベイトソンが十分にそこを追えているようには、いまいち思えない。そしてこの辺は、システムにおけるコミュニケーションについて追っかけるなら、ちゃんと追っかけた方がいい事な気がする。
〇「基準6―変換プロセスの記述と分類は、その現象に内在する論理階型のヒエラルキーをあらわす」について
主に論理階型とそのネットワークの話。割と好きだけど、論理階型と論理階型をつなぐ「(アナログ的な??)糊」があるとしたらそれってなんだろう??って気になる。なんか論理階型同士の「つなぎ目」が見えない。また上記したようにトルクのロス率的な(アナログ的な)考え方がないので(トルクのロス率って考え方が妥当かどうかは置いておいて)、なんかデジタルシステム的過ぎて、ふわふわした抽象論に感じられる印象はある。ただ最後半にある、精神過程の論理的一貫性(とおぼしきもの)が崩れ落ちた時の記述や、「生命を支える回路の一つ一つが、破綻と死の影を覗かせている」という洞察は、重要なものだと思う。話は飛ぶが、生命万歳のクソみたいなエコ思想(笑)を時々見るが、その大きな源流の一つであるベイトソンの考察が、生命や生命世界の姿のうちにどういった明と暗を洞察していたのかってのは、そういう思想好きな連中には伝えてやりたいと少し思ったりする。実際は馬鹿馬鹿し過ぎてやらないと思うがね(/ω\)
最後のまとめ部分は素晴らしい。後につながるストカスティックプロセスの記述もいい。色々書いているけど、俺はまじでベイトソン好きです。こんな深く真摯に生命世界を見てきたオッサンそうそういねーよ。
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