2018年5月20日 - 80

メモ:非構造的なもの、公理的でないものについて

知人との会話から抜粋。一部修正してるっす。あとめたくそ長いです。。。(/ω\)

でも自分的に重要だと思うので書く(`・ω・´)

あとby知人って勝手に引用してますがSさんすんません。こんどまた飯でもくいにいきましょーw


非構造/構造の話ですが、ベイトソンが比較していたモーセの神話?だかと、インドネシアかどっかの神話では、モーセの神話では神なるものが「光あれ」と宣ったところから世界が生じはじめ、インドネシアだかの神話ではワニが泥をバチャバチャやってたのを英雄が殺したら泥が沈殿して世界が姿を現した、とかあります。これは、自分からすると、ワニの話の方が本質的ではないかと感じるし、ある意味ではモーセだかの神話では順序が逆転してるようにも思えます。つまり、非構造的なところから、徐々に構造が現れた、というのが実態であると。そして、非構造的なところから現れた構造が、あたかも無から現れたように語るのは、非構造的なところから構造が姿を現したあとに、後付けで考えた語りではないか、という感じです。自分からすると、構造的なものが姿を現したところのものである、「非構造的な世界」のうちにどのように踏み込み、何を得るのか、という事が、実は重要であるようにも思えます。神話つながりでいうと、北欧神話のオーディンも、自らを木の枝に吊るして死の世界(という非構造的な世界)に片足をつっこみ、そこからルーン文字(という構造)を得てきます。そういうとこを追っかけていくと、何かがある気がするのです。その何かは、「分からなさ」の別名かもなんですが、それにしても、その分からなさ/何か、への臨み方、向き合い方をどう取れるか、というのは大事な事な気がします(*`・ω・)ゞ

雑な話をすれば、非構造的な世界のうちの重なりや、その重なりが形成するパターンを「構造」というのなら、構造を分解していけば、いずれは非構造に辿り着きます※1。

※1:話が逸れますが、これは無際限な分解ではなく、オートポイエーシスだののシステム論がいうところの「システム要素」のその先まで、で良いと思います。例えば生物や生命が、生物や生命たりえるその限界の先=死あるいは非生命、というレベルまでで十分だと。

そして、これも雑な話ですが、構造が、非構造から/非構造によって形成されるとするなら、その「非構造→構造」の形成の様態あるいはその形成のシーケンス(を成立させるダイナミズム)のうちに、例えば生物や生命の姿の一つはあるようにも感じます。その「非構造の世界」あるいは「非構造→構造」のシーケンスを、あたかも「すでに出来ている、名が付与されている、語られている」すなわち「構造的でしかない」もののようにしか捉えられない、というのは、俺には、構造的な世界の先への行き方を失った語りにも思えるのです。

構造性/非構造性の関係については、ここで言及されているような、構成素/システム要素、の関係だと捉えてもいいように感じます。ワニの神話でいうならば、ワニが泥をばちゃばちゃやっていた時が「構成素の産出が生じているだけ」の状態で、ワニが殺されて泥が沈殿したのが「産出プロセスのネットワーク状連鎖が閉域を形成した」状態で、そして泥が沈殿した後の陸地で行われたのが「その閉域においてシステム要素が機能した」以降の状態になる、という話っす。繰り返していますが、この文脈をなぞる言い方で言うと、自分としては「構成素がばちゃばちゃ産出されているだけの状態」へのまなざし的なアレが重要なのであって、システム要素が機能してシステムがルール的に働き始めたあとの話は、非常に極端なことをいえば、公理的/ゲーム的に進むだけではないか、とも思えます。

しかしまた、システムなるものがおそらくは、揺らぐもの、動的なもの、永遠ではないものである以上、構成素とシステム要素の完全な区切りは出来ない、いえば、生命や生物はつねにどこかしら、(あるいはその基底を)揺らぎ、動き、永遠ではない場所を根としているのではないか、という事であるなら、その根の昏さ、分からなさ(構造性からの捉え難さ)、「構成素の産出が生じているだけ」でまだシステムにはなっていないその姿というのはずっと付きまとい続けるのではないかと思えます※2。

※2:それは例えば(こういうシステム論的な話からは離れるようかもですが)、死、異界、自然、闇などといったものへと連なるような出来事かもしれないです。あるいは生命や生物とは、そういう揺らぎの合間で自らを形作り続けようとしているものであって、確定的な姿のあるようなものでもないように思ったりもします。

自分としては、こういう書き方でいいか分からないですが、構造/非構造というのは、非対称的な対比ではないかとも感じられます。いえば、生/死というのが、生の世界と死の世界があるのではなく、生の世界と生が崩れ去った世界(だったもの)がある、ような話です。いえば、生に対置される死、というのは、生の「構造的な世界」から捉えた「構造物」であって、しかし実際に生が崩れ去った時にはそこには構造物があるのではない、というような捉え方です。フロイトの「原初の状態」とかに近い捉え方というか。あるいはまたいえば、非構造的な世界は、構造的な世界に対比されながら、実は構造的な世界の基底を成しているようにも感じられます(例えば死の世界を「根の国」というように)。こういうところを、「記号的に」あるいは「構造的に」ではない方法で追いかけていくと、記号/データ/公理、といったもののその先に至るルートが開けてくるようにも思えます。

ところでまた、ナウシカの最後の方に「命は闇のなかにまたたく光だ〜全ては闇から生まれ闇に還る」みたいな言い方がありますが、これをこの話に、強引かもですが、紐付けるなら、非構造的な世界の中にも何らかのパターンがあり、全ては(?)そこから生じてきた、という捉え方が出来るのかもしれないです。じゃあ「非構造的な世界のなかのパターン」というのは「構造」ではないのか??という話にもなるように思いますが、(これについては、あまり練れてはいないのですが、)それは「構造的」なものではない、というようなことになる気がします。ある何かを「構造的」と捉えられるのは、すでに構造が成立した世界から(事後的に振り返って)見た場合であって、まだ構造物が生じる前の世界で生起している出来事を、「構造的」とはいえないように思います。これはオートポイエーシスでいうところの「(システムの)ネットワークが産出される前の状態※3」において何らかのもの(システムになるかもしれないしならないかもしれないもの)が生起している状態、という話かもしれないです。あるいはまた、ベイトソンのいうプレローマとクレアトゥーラは、この意味で、ゆるやかに、そして非対称的につながっているのかもしれないです。そしてある種のコミュニケーションというのは、非構造的な世界からなにごとかを掬いとってくるような事が含まれる出来事ではないかと、自分には感じられます。その意味で、そういったコミュニケーションは(「構造的な世界の先」に)開かれ続けなければ、そういったコミュニケーションでなくなってしまうし、またそういった「構造的な世界の先に開こうとする認識/働き/活動」というのは、ある意味では、生物や生命の本質的な姿の一つではないか、という気もします。

※3:ところでこれはめっちゃ余談ですが「昏いところ」や「ネットワークが産出されシステムとして動作する前の状態」は、「ろうそくの炎になる前の(気化しただけで酸化燃焼反応を起こしていない)ロウ」とイメージ的には少し似ているのかもしれないです。自分自身では燃焼出来ておらず(自然対流はしそう)、他からのエネルギーで動いているだけの、炎というカタチになる手前のところにいる現象というか。だけどそれがなかったら炎は生じないし継続もしない、みたいな。

話を戻します。構造的/非構造的、と同じような事でいえば、明瞭と不明瞭を「対称的な対概念ではない」って話はあるように思えます。これを「対称的な対概念」と捉えるかそう捉えないか(あるいは「非対称的な対概念」と捉えるか)では、認識論的なスタンスが劇的に変わるように思います。言い換えれば、ある意味では「よく分からないものは『 不明瞭さ』というケースに入れてしまえばいい」というのが一つの(今はありがちな)認識論ではないかと思います。しかしそうではない認識のあり方、いえば「不明瞭さというのはケースに入れようがない」し、また場合によっては不明瞭さは明瞭さの基底を成しているかもしれない、みたいな認識のあり方があるように思えます。そのようなスタンスから、不明瞭さから明瞭さがどのように現れてくるのか、あるいは非構造的な世界から構造的な世界がどのように現れてくるのか、のような事を探っていくのは、少なくとも俺には重要に感じられます。少なくとも明瞭さが「公理的な方法で」「いえば無からいきなり名乗りを上げるように」「そして無条件に信じろと宣うような格好で」不明瞭さから現れてきた、ということはないように感じられます(後述しますが、公理的な認識スタンスにありがちな「AはAであるからAはAである、という事を無条件に受け入れろ」というのはまるっきり馬鹿げた宗教のような思考停止でないかとすら思えます。しかし実際は、そうではないスタンスに俺らは「不安定に」立っているように思えるのです)※4。

※4:例えば、雑な話かもですが、コミュニケーションにおける他者の心のようなものも「ある種の明瞭さ」の先に透視される不明瞭な領域、にあるかもしれないもの、とも捉えられるように思います。その認識に立つなら、俺らはコミュニケーションにおいて、いえば、不明瞭さ(のうちにあるかもしれない領域)に向けて、自分自身の意志なるもの(意志なんてものがあるかどうかは置いておいて)を投企したりする、というようなことになると思えます。そういった、俺らが自らを投企するような領域、あるいはもしかしたら、自分自身の根(意識の根、意識なんてものがあるかどうかは置いておいて※5)にあるかもしれない領域に、不明瞭さというのは表れて来る/表れているようにも感じられます。そういった不明瞭さを排除せず、ある種の基底として汲み続けようとする事であったり、あるいは不明瞭さのうちに表れているかもしれない領域の姿を見ようとし続ける事などが、俺には重要に感じられるのです(*`・ω・)ゞ

※5:意識といわれるものは本当にあるのだろうか??あるのは覚醒と沈殿/沈みではないのか??そしてその「覚醒と沈殿/沈み」を起こすものは、「意識」などと名詞的に語れるものなのだろうか??意識と語られるものにとってみれば、それはある面では世界の覚醒と世界の沈殿であって、その意味では「名前のつかない/名前のつく手前の全て、がひとときに生滅する」ようなものではないのだろうか??

ところでモノについてちょい書かせてください。例えば自動車でもいいんですが、自動車は、元々はありませんでした。それが、無数の部材が取り集められ、組み合わされ、そこに「じどうしゃ」という音と、「自動車」という文字が重なり、皆に少しずつ使われていき。。。という無数の行動の重なりのうちに、イメージの奥行きが少しずつ深まり、今の「自動車」があるようにも思います。いえば「自動車」なるものは、何者かが「光あれ」と宣って根拠もなく出現したのではなく、そういった無数のモノやイメージの重なりの中に(個々によって、あるいは多くの皆によって)「見出されている」というのが、ある意味では実際の出来事に近いような気もします。同じように、多くのカテゴリなんかも、実際はその(スタティックな)名がいきなり現れたのではなく、その手前で名もつかない状態での無数の出来事があり、それらに名が付き、そこにイメージが重なっていく事で(ダイナミックに)出来ていったのではないか、とも想像します。ところで生物なんかは、古い言い方でいえば一つのゲシュタルトを成しているように思えますが、一つ重要ではないかと思うのは、そのゲシュタルトが作っているカタチだけではなく、そのゲシュタルトを構成し続けているダイナミズムのようにも思えます。そのゲシュタルトよりもさらに奥あるいは基底にあるかもしれないダイナミズムというか(ここでいうゲシュタルトとダイナミズムを、単純な階層関係と捉えていいのかは分からないですが)。結局例によって構造/非構造の話に紐づけると、表面的な(?)ゲシュタルトという構造(だけ)ではなく、それを生成させ続けている(ゲシュタルトよりも奥にあるかもしれない)ダイナミズムという非構造への(ありていに言えば)想像力が、あるいは違う言い方をするなら「ゲシュタルトを通して間接的にしか、想定/働きかけ出来ないかもしれない領域への(おそらくは投企的なあり方を含む)アプローチ」が、自分には重要に思えたりします※6。

※6:ところでゲシュタルトを構造に、ダイナミズムを非構造に、単純に置き換えていいかというのはちょい良く分からないなーとは思います。またちょい違うんじゃないかなーと。

> ゲシュタルトとダイナミズムは対ではなく、視点の違いなのではないかと。噴水が定型になったり非定型になったりとか?そもそもゲシュタルトは見る側に、間主観的にあるのではないかと。by知人

そういう風でなんじゃないかと思います。ただ単に間主観的なだけか、というとまた難しいと思いますが。ただ難しいとはいっても、そういった間主観性のなかで、徐々に、いえばシーケンシャルに成立していっている契機が、複雑にまた動的に切り結ばれていく世界を俺らは生きているし、またその切り結ばれていく中に何らかの奥行きや繋がりを見出そうとしながら、それらの契機群に関わろうとしたりしている、というのが俺らの認識の仕方、世界への関わり方な気がします。というか(というか、でいいのかな??)自分は「俺らは、無数の契機が動的に切り結ばれていく中に何らかの奥行きや繋がりを見出そうとしながら、それらの契機群に関わろうとしたりしている、というやり方で世界(の無数の事象)にアプローチしている※7」のではないかと感じたりする方なんで、逆に「あるカテゴリが静的なものとして突然与えられる」とか「ある公理的なルールが突然与えられる」というようなスタンスの認識が受け入れがたい、というところはあったりすると思います(`・ω・´)ゞ

※7:相手の心を見出す、みたいなのは、個人的にはまさにこのような出来事ではないかという印象があります。

この言い方でいえば、契機の切り結ばれ方をどれほど深く見れるか、みたいなのが個人的には大事な気がします。そして、公理的なものの見方、カテゴライズをベースとしたものの見方は、「契機の切り結ばれ方をどれほど深く見れるか」という視点から、非常に雑にまたステレオタイプにいえば、これを非常に浅くする見方のように自分には思えます。いえば「構造的なものにしか目を向けられない」と同じものではないかと。

> シーケンシャルという捉え方の優れた点は、良くも悪くも契機の切り結ばれ方が文脈に規定されがちな状況を上手く説明できるところかなと。それを意識しているかどうかで関わりの奥行き感がでるのかなと思います。by知人

優れてるといえばそうかもしれないです。物事の契機は何らかのコンテクスト(あるいはシーケンス)においてのみ発生する、と捉えるならば、公理やカテゴリや名のようなものが発生した背後にも、それが発生するに至った無数の/細かな/捉え難い/曖昧ともいえるようなシーケンスが、しかし確実にあったであろう、というような見方は、世界の奥行きをある程度まっとうなカタチで増してくれる気がします。ある意味では名以前の世界、生以前の世界、光以前の世界などへの、まっとうな想像力というかなんというか、みたいな感じだと思います。そしてここで重要かもなスタンスが「名以前の世界」を「名において(直接的に/明示的)語る事は出来ないor非常に難しい」ということだと思います(だってそこにはまだ「名」がないのだから)。そのスタンスというのが、いえば、構造と非構造は「対称的な対比概念」ではなく「非対称的な対比概念である」ってことだと思います。この辺まだ自分の捉え方も雑ですが(/ω\)

また公理的/公理論的な話でおかしいと思うのが、雑に言えば「名以前の世界でも『名において』語れる」ってとこだと思うんです。「名」がなくなった/なかった世界をどうやって「名において」語れるというのか、というのが、これも雑にいえばですが、それに対する俺のスタンスです。またしかし同時に自分は「名以前の世界でも何らかの(名になる前の)シーケンスはあったのであろう」というようなスタンスに近くもあります。というか(強い言い方をするなら、)相手の言動を通して相手の心のようなものを見出したり感じたり、というのは、そういうスタンスからしか起き得ない事ではないか、という気もします。これは相手の心、というような人間関係のあれこれだけでなく、「森の精霊」みたいな、無数の現象のうちに透けて見出される何らかの抽象概念/イメージのようなものも同じかもしれないっす。

良し悪しは別にして、俺は繰り返し繰り返しそういう領域を重要なものとしようとしている、ようには思います。個人的にはそういう、名以前の世界のシーケンスが見せる奥行きであったり、その奥行きのうちに顕われているように感じられるものの姿(?)、とのやり取りのようなものであったり、そういったもの達が顕われてくるダイナミズムやパターンのような領域のうちに、少しずつ踏み込んでいってみたい、という思いが片方にあったりします。まあこれが俺の、いえば内に向かう面で、もう片方には結構社会的な面(というか外に向かう面?)もあったりするんですけどね。その「もう片方」が今の仕事につながる面だったりなんだりですが(`・ω・´)ゞ

> 文化人類学者ヴィクターターナーが言うには、そういった存在は構造化されていない世界あるいは境界/周縁にこそ成立するのであって、構造化された世界にはいないもしくは認識されないそうです。
ユングもそんな感じの認識だったのかも。by知人

そういう言説があるのはなんか分かるっす。ちょい文脈外れますが、そこで疑問に思うのが、近現代における科学合理主義の過度な推進、のスタンスのように(?)その認識の構造化(の方法)の基底部分がある種の公理的/公理論的な認識論であるとするなら、その基底のあり方は宗教と何が違うのだろうか??という事だったりなんです。公理的な認識論についていえば、AはAであるからAはAである、というのは、明晰さなどではなく、まるっきり馬鹿げた宗教のような思考停止ではないか、とすら思えます(その意味で俺には、いわゆる現代科学などが依って立つ認識論も、非常に馬鹿げているように思えます)。この辺りについては、自分は、分からなさに向き合うのが重要、みたいなスタンスです。分からなさというのがどのように顕われているのか、あるいは分からなさのうちから分かることがどのように顕われているのか、といったその「分からなさの顕われ方/分からなさのうちからのものごとの顕われ方」にちゃんと踏み込んでいこうとしないと、認識が「分かるものだけで出来た世界」に閉じ、「(自らの根を含むかもしれないような)構造の先にあるもの」を殺してしまう世界にしかならないような印象もあります。

メモ / 日々


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