2018年8月14日 - 80

メモ:言語と感覚について その2

ある(組織的な)システムが形成されると(もしかしたら全てのシステムというのは組織的なものかもしれないが)、それにとって内界/外界の(コードを伴わない)メッセージは意味を持つようになる。ベイトソンは「組織的でないものなどない」のような事を言っていたが、例えば錆びる金属にとって、水や空気は腐食の意味合いを持つだろう。あるいは猫にとって、水や動物性タンパク質は、栄養補給の意味を持つ事があるだろう。あるいはカラスにとって、仲間が危険を知らせる鳴き声は自身の身に迫るかもしれない危機の意味を持つかもしれない。

そこでは、物理的な出来事も、化学的な出来事も、生理的な出来事も、(危険を知らせる鳴き声などの)情報的な出来事も、ある面では等しく「システムにとって何らかの意味を持つ」ものとなる。物理的な衝撃さえ、システム自身を破壊するものとして意味を持つ。そこには「メッセージで無いもの」は、ある意味ではどこにも無い。

ところでしかし、危険を知らせる鳴き声と物理的衝撃は、幾分異なるかもしれない。鳴き声は単なる不快な音声というメッセージであるだけでなく「何か危険がある」というコードを伴っているかもしれない。そして物理的衝撃は、まさにそれを受け取るときには他の何かを伝達するコードとしてはほぼほぼ振る舞わずに単なる破壊的なメッセージとしてのみ機能するかもしれない。しかしまた、物理的衝撃が例えば飛んでくる石によってもたらされるとすると「その石が飛んでくる」という視覚情報や音は、破壊的なメッセージではなく「破壊的な出来事が起きる」というコードとして振る舞うのかもしれない。あるいはまた、物理的衝撃によって起きる極めて破壊的な状況は例えば「死を連想させるコード」として振る舞うのかもしれない。あるいはまた、危険を知らせる鳴き声があまりに不快な場合は、それは危機への予知だけでなく不快そのもののメッセージとして振る舞うのかもしれない。

この辺りに踏み込んでみて俺も分からないのだが、ベイトソンは地図と地形は異なるとか、俺らは地形に辿り着けないとか言っていたかもだが(あんまちゃんと覚えていないが、ある過程では地図と地形は同じに扱われ、別の過程では地図と地形は違うと扱われるなどと言っていたかもしれない)、その「地図と地形」を「コードとメッセージ」と置き換えるなら、その区別は曖昧かもしれないし、あるところではメッセージとして振る舞うと捉えられるものが、また別のところではコードとして振る舞うと捉えられるかもしれない。あるいはまた俺らは少なくとも物理的、化学的、生理的な出来事などのレベルにおいては、地形のうちにあって/地形に辿り着いていて、地形としてあれこれ振る舞っているのかもしれない。

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