2018年10月6日 - 80

メモ:演繹ではないものについて

3つの世界があるとする、1つは現象の世界、1つは(現象からの)帰納の世界、1つは(声からの)演繹の世界だ。俺には現象の世界こそが始まりなのだ。帰納も演繹もそれを覆い隠せないのだ。

声とは例えば、「私は/私たちは、これを正しいこと、正しい前提、正しい規約、正しい規範とした」というような声だ。あるいは「私は/私たちは、これをこのように呼ぶこととした」というところからの声だ。そこにあるのは「正しいこと」ではなく「正しいこととしたこと」なのだ※1。

※1:しかしところで、声を否定する気にはなれない。それもまた、俺らが生きようとした事で生じてきたものであろうという気がする。しかしその意味でおそらく、(その様な声から派生したと思われる様な)形式的な論理系ですら、俺らの生/生きようとしたことと切り離されてある/存立するわけではないのではないか、と俺は想像する。

俺らは常に蓋然性(確からしさ)でしか語れない出来事のうちにある、と俺は思う。もっと言えばその確からしさがどの程度確からしいのかを示す事も難しいような蓋然性のうちにあると思う。

おそらく俺らの観測はまっとうには成立しない。なぜなら観測(可能)性をもつ俺らは、なぜ自分自身が生じてきたのかという内的体験を観測出来ないからだ。俺らは常に、気付いたら生きていた、生じていた、感覚していた、というような状況にある。俺らが自らの生滅の原点/未生の状況に立ち帰ろうとするとき、おそらく俺らの観測(可能)性は解体していて/形成していないところに立ち戻っていて、その意味で、壊れている/死んでいる。俺らは、自ら知らずして、生きてしまっていたものでしかないのではないのか(同様に、俺らは、自ら知らずして、生の壊体≒死へ落ち崩れていくものなのかもしれない※2)。

※2:ところで世の中的には、生の立ちのぼる様なイメージを惹起させる物事が多い様な印象を受けるが、俺らが死に落ち崩れる様なところもあるならば、生の立ちのぼる様な出来事にしか関わろうとしないという事は、世界の半面、自らの半面を置き去りにしてしまうという意味で、生きる世界を単調にまた貧しくする事かもしれないし、あるいは自らが生じまた滅するところへのアクセシビリティを置き去りにしてしまうという意味で、単に貧しくなるよりも、もっと酷くてクリティカルな事の様にも思える。つまり自らの存在の仕方の置き去りや否定や抹殺に繋がる様な事にも感じられる。

帰納的な世界描画も、しかし、蓋然性の域をでない(そもそも帰納的ってのはそういうものらしい)し、それが俺らが判断する蓋然性であるならば、それは結局俺らの観測不能性に繋がっていくように思える。また演繹的な世界描画も、そこにあるのは「正しいこと」ではなく「正しいこととしたこと」であり、その行為を行うのが俺らである以上、その根底には観測不能性/なにがしかを正しいことと決めた俺ら自身の解体、が横たわるように俺には思える。こういった様に蓋然性観測も世界描画も観測不能性に繋がっていくのならば、蓋然性の程度すら示せない蓋然性のうちに俺らは生じているのではないか、と俺は想像するし、また俺らは(帰納的推論による)蓋然性よりも手前に、また演繹的なモデル描画に基づく世界観よりも手前に、生じてしまった現象のうちに生きて(しまって)いるのではないかと想像する。

ところでまた、俺らに分かるのは、現象の世界の、広がりと、物事の生滅の順序ではないのか(それだけしか分からない、という話ではなくて)。それらを外から見えるかもしれないと想像したときに、広がりはいわゆる空間の様に、生滅の順序はいわゆる時間の様になるのかもしれないが、俺らはほんとうに、それらを外から箱庭のように見ることなど出来るのだろうか。あくまで「俺らが体験し想像できる限りの広がりや生滅」しか俺らは至れないのであって、それが無際限に適用され、神の視点のような空間や時間が(デカルト座標のように)描けることとしてしまうのは※3、俺らの実際の観測性や想像性とは異なる、機械的なルールを広がりや生滅へのイメージに対して適用したときではないのか。その機械的なルールの適用は、俺らの生身の観測性や想像性の喪失や置き去りや、あるいは強くいえば否定や抹殺に繋がる行為ではないのか。

※3:解体による観測不能性の話以外にも、俺らの(とりあえず視覚的な)認識や観測は「数学における点」のような身体性から行われるのではなく、身体の高いところにある頭部に付いた目から行われるという意味で、A.広がりのうちに身体が存在する場を占め、B.後頭部や身体内部は見えない、という意味で、「神の視点」の様な見え方とはそれなりに異なると思う。これは俺の意見だが、俺らには俺らの観測性や想像性の限界があるので、そんななかで「神の視点」の様なものを想像する時は、自分達のあり方に対する何らかの否定的あるいは隠蔽的、あるいは見ない振り的あるいは無いことにする的な操作をしているのだと思う。そして例えば「自分達あるいは何かを無いことにして」描いた世界像のうちには、もう自分達や何かは無いのだと思う。その意味で、その世界像から改めて(世界像形成時に無いことにした)自分達や何かを語ろうとするなら、そこには必然的に語りの欺瞞が起きる様に思う。

生きてしまった現象の世界から、例えば帰納的なやり方によって蓋然性を導き出し、それらから、あるいは声から演繹的な世界を描画し、そこから再びまた現象の世界に働きかけるとしても、そこでの1つの出来事、つまり生きてしまった現象の世界に俺らが臨むことの姿は特に変わらないのではないかとも俺には思える。そこで変わるのは(帰納/蓋然性や、演繹/俺らが構想した「ゲーム」や※4、あるいはそれ以外の諸々によって世界像が描かれる事に拠る)俺らの世界への働き掛け方の信念だけかもしれない。現象の世界は変わらないのかもしれない。もちろん技術の問題もある。つまり俺らが世界へ働きかけられる領域が増えていく様に感じられる、とも取れる出来事達だ。しかし技術が俺らの存在が存立する仕方に対して大きな効能があるようには、現時点では俺は思えない。俺らの存在の存立が、俺らの観測の解体するところ/俺らの預かり知らぬところでの出来事だとして、そこの仕方(預かり知らぬところで存在が生滅するかもしれないという仕方)が変わらないのなら、幾ら技術が発達しても、俺らが自身や世界に感じるある種の魔術性/謎/盲目性、つまり観測したい対象/内的体験に近付けば近付くほど光※5は失われる、というところは変わらないのではないか、とも俺には思える。これも俺の、現時点での想像でしかない話だが。

※4:ところで蓋然性とゲームを「確からしさ」などで「繋いで」、ゲームによって世界を語れるものとしてみようとするのも、また俺ら自身ではないのか??そこには必然的な繋がりなどなく、むしろその「繋ぎ」方を形成する「膠(にかわ)」もまた俺らの声の業ではないのか??つまり「このゲーム/モデルを」「この現象に」「適用可能としよう」という判断もまた、ゲーム形成/モデル形成と同様に、俺らの恣意的な声ではないのか(あるいはまた、論理的なるものの接合性に純粋さや厳密さを要請したがるのも、この膠的なやり方なのだろうか??それともそれは要請や欲求ではなく必然に近いのだろうか??俺はなんとなくだが、必然ではなく、ヒトの生理的な理解様式からの強固な要請、という気はする。世界はけしてそれだけではないのではないか。例えば不意や絶望や断絶や新しさや憂鬱や気まぐれ。そういった膠が剥がれ落ちた/論理的でない姿というのは、ある意味では世界にとって当たり前の姿ではないのか)。

※5:光が失われるというものの意味は自身と世界で幾分違うのかもしれない。自身については観測性の解体であり対象に近付けば近付くほど観測が闇に帰すること、世界についてはモデルの解体であり対象に近付けば近付くほどモデルが現象に帰すること、の様な出来事かもしれない。ここでいうところの現象の姿もまた、最後は自身の観測性(とその解体)に幾分紐付くところに繋がっていくのかもだが。


俺は、たった現時点では、俺らに訪れる現象とは感覚のゲシュタルトであり、俺らはそこに何らかの/無数のイメージの現出や残響をみてとり、またそのイメージの現出や残響から何がしかの事/印象を受け取る、ような印象はある。だけれども実際はそうではないのかもしれない。今の俺には分からない。その辺りはまたゆっくり歩いていきたい。


ゲームの中で無い限り、ものは名乗らない、機能も意味も示さない※6。それがどのようなものであるかは、1つあるいは無数のゲシュタルトや、ゲシュタルトの配置や、ゲシュタルトの順序や、ゲシュタルトの広がりから感じなければならない(文章なんかは、文化的に機能を帯びた事にされた音声や形のゲシュタルト/象徴の、順序だった配列なのかもしれない)。

俺らはその様にして訪れる意味(文化的というより、生態学的な意味)の移り変わりや凝集や拡散の洪水のうちを、あるいは意味の世界のうちを※7、幾分移ろう存在として(あるいは/そしてまた観測不能性を暗に抱えた存在として、あるいはまた代謝や死や生誕などのあり方を抱えた存在として、あるいはまた何らかの関係性への要請を抱えた存在として)姿をとっている様な気もする。もちろんこれも合っていないかもしれないが(そもそも合ってる合ってないの話ではないかもだが)。

※6:もっと言えば行為も名乗らないし、機能も意味も示さない。「名乗る行為」がほんとうに名乗っているのかの保証はない。1つのものや1つの行為の意味は、そのものや行為の振る舞いから示唆されるだけで、そこに保証はない。また「振り返ればあれはああいう事だったのかもしれない」という様に、今感じた意味がずっと継続するとも限らない。

※7:ところでそういった世界のうちに、何らかの意図(意図って何だ??)を感じさせる反応系を見いだした時に、あるいは「何らかの関係性への要請」に応えてくれそうな反応系を見いだした時に、ある種のコミュニケーションが始まるのだろうか??もしそうだとして、そこにあるのは共感や投影や畏怖や欲求(例えば意図が感じられること、孤独でなさが感じられること、等々)などが混ざった、ごく素朴なアニミズムの様な(他者なるものの)淡く曖昧な象徴化/人格化なのだろうか??

ある意味では、意味の世界とは、相互投影の乱反射によって何がしかが照らされたり影になったりする世界な気もする。

要請、記憶、忘却、などの無い世界は平板なものだろう。

トポロジカルなシステム、トポロジカルな意味的システム。変遷。象徴。代謝。欲望。

1つの生命は、半ば開いた※8、トポロジカルなシステムで、過度な破壊に対して不可逆的(系(という世界)の再現が不可能)だ。その意味で、その「単体の」システムは代替不可能だ。1つの生命はそれしかいない※9。俺らのなかに無数の臓器、無数の機能、無数の欲望があるとしても、トポロジカルな限界があるからこそ、俺らはその限界をもって1つの生命/システム/象徴/反応系/感情系/評価群系だと、自らを捉えたりするのだろうか(時にそういった限界は無視されるとも思うが。例えば集団や土地や生態系への愛着)。

※8:以前書いてたことの再メモ。真にオープンな状態とは、オープンもクローズドも内包した状態だ。

※9:ところで生命は自身のことを大事にするようにも見える。これは機械とは違うと感じる。


道を歩く時、彩りや奥行きや陰影や光が目に入る程度に、俺らはものを感じているのだろうか??実際にその環境のうちから機能として見ているのは、何らかの特徴項目さや特徴的な差異だけだったりするのではないだろうか??そして俺らがやるのは、そういった特徴項群への注意の制御/操作だけであって、制御/操作した結果どういった情報が流れ込んでくるかは操作している訳ではないのではないのか(良く分からん)。

メモ


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