2016年11月19日 - 80

土について その3(地図と操作と敬意について)


地図というのは少なくとも3つの要素が成り立つことで機能している。まず「地図によって指し示される対象(葉っぱとか)」、「地図にある指し示す記号(葉っぱの記号的なアレ)」、そして「『指し示される対象と、指し示す記号とは関連づいている』という(生き物の)認識/信念」の3つだ。

ここでどれが欠けても地図は成立しない。そして、指し示される対象(以下対象)と指し示す記号(以下記号)とは、意味としてはそもそも関連付いていない。「それらが関連付いているという信念」が糊のように働き、それらはその糊の強度/粘度の程度だけ、その認識/信念が働く認識世界において関連付く。

ところで、世界を(名詞的に)認識する時の情報のマッピングは、ざっくりでこれと同じ様に行われているようにも感じる。例えば葉っぱといった時に、葉っぱ的なイメージが思い浮かべられ、その想起のなかで当然のように実体としての葉っぱと葉っぱイメージが関連付いている事になっている、みたいな。

そのようなマップに、例えば葉っぱはマッピング出来る。他の色々なものもマッピング出来る。そしてまた自分自身をマッピングする事も出来る※1。そして、そのマップ上に上げられた「葉っぱイメージ」は、他の色々なものと関連付ける事が出来る。これは広葉樹の葉っぱだとか、葉脈があってそこにはこういう物質が通ってるとか、どっかの国ではこれをお祭りの飾りに使うとかな。

※1:そこには一種の認識の捻れがあるんだろうが、その辺はまたどっかで書けたら書きやす。

ここで、そのマップ上で自然科学的な見方をするとして、葉っぱを説明できる事になったとする。別に自然科学でなくて何かの宗教でも何でもいい。ではその「説明され得るようになった葉っぱイメージ」は、どの程度、実体としての葉っぱを説明できるのかというと、おそらくある関係性の強度※2に依存した程度しか説明できないか、あるいは全く説明できない。違う言い方をするなら、その説明は、その認識/信念をしている者の認識/信念の強度分だけ「その者として/その者にとって」の説明を可能にしているという事になるだろう。

※2:それはいえば、その者と葉っぱの関係性の強度に依存し、その説明の強度におそらくは依存しない。

しかしそれがその者にとって説明を可能にしているとしても、おそらくだが実際は、葉っぱの形をした記号を、他の無数の記号と関連付け、認識世界上で操作出来るようになったところで、それで実体としての葉っぱを説明できるわけではない。そこで起きているのは「葉っぱイメージ」がその認識の体系上に整合立って位置づけられたという事であって、実体としての葉っぱはそこには関与していない。

ところで、その見方をしている者の信念が強靭で、葉っぱイメージや葉っぱ記号で実体の葉っぱを完全に説明できると思ったとする。あるいは、実体としての葉っぱは、その記号で織られた説明の系のイメージが示すうちに収まるのものでしかない、と思ったとする。

そして、彼にその説明の系が十分納得できるものであった場合、実体としての葉っぱは彼のイメージの中で十分に説明可能なものとなる。そうなるとおそらく、実体としての葉っぱを、葉っぱイメージを元に語る事は、彼にとっては差し支えない事になるだろう※3。

※3:ここにも多分、さっきのと同系統の認識の捻じれがありそうだと個人的には思ってる。

そのような形で説明の系で世界を捉えた時、そしてまた、その説明の系を元に実体としての世界を語ろうとしたときに、おそらく、そもそもそのイメージの元であった実体の世界は、認識の埒外へと置き去りにされるのだと思う。あるいはもしかすると、実体としての葉っぱを、葉っぱイメージを元に語る事は、葉っぱイメージを元に「実体としての葉っぱ」イメージを語っているだけかもしれないのだが、いずれにしろ、葉っぱイメージの元になった実体としての葉っぱ(がある世界)は、認識のホットな部分から遠く隔たれ、埒外に置き去りにしまうように感じる。

俺的にはだが、イメージの元である世界/実体としての世界があるとするなら、自分なりにそこへの敬意を払って、そこから作ったイメージなどはどこかにやった状態で関わるものな印象だ。そういうのが出来ていないと「実体としての世界から自分で作った説明の系」にいつの間にか住まい、それの元であった世界の手触りを失ってる奴になってしまいそうだ。

俺は世界に対する自分なりの敬意ってのは重要だと思うし、あと地べたとか、ちゃんと風が抜けてく感じが好きだ。自分で作った説明の系の中にいるのは、なんというか、手触りの無い規格品しかなくなった世界にいるようで不自由だと感じるし、何か違えたような違和感がある※4。俺は手触りのある世界が単に自由だとは思わないが、手触りのある世界にいるというのは、ただ自らが考案したイメージが(自己を含めた)何もかもを表す事が可能で、また実体の世界はそのイメージ/仮想的ルール※5に従って動作するというような、いびつな世界観※4のなかに閉ざされているのではない事だと思う※6。俺はその意味で、そのような仮想的ルールにの全てに従わずに、実体的な世界から閉ざされずにいたい。何かの世界観のなかに閉ざされた感じにならず、風が抜ける感じがあるっつうか※7※8。

※4:まあ認識の捻じれが、その違えた感が示すものだと思うが。

※5:認識世界のルールはおそらく全て仮想的なので、これは冗長な言い方かも。

※6:実際は閉ざされた感じなだけで捻じれを解除すればいいんだろうが。

※7:ルールに従うのとルールを受け入れるのは別だと思うんすよね。認識世界でいくら素晴らしいルール(仮想的ルール)が出来ても、実体の世界はそれに従う事はなくて、ただそこから起きる現象を受け入れはするのだと思う。実体世界はじゃあ自由かというとそんな事はなく、諸々の軋轢を生じさせながら動いてると思うが。

※8:知ろうとするから分からん、というのはこの辺に理由/構造あるかも。ランダムとも思える現象に対して、はじめから知識の系を前提に捉えようとするのではなく※9、そこに入ってフィードバックをたくさん得た方が、非完結的でより妥当な理解の系が構成されてく印象。まあそういうのはフィードバックでやるだけでなく、ある種の抽象性っつうか大局的な視点てのも大事だと思うが、それはまた別の話なんで。

※9:ある知識の系を前提として現象とはそれ以上ではないと捉えるなら、そこから逸脱する現象への目線が欠ける。本来必要なのは現象を深く汲み取ろうとする姿勢であって、なので、自分が自分なりに組み上げた知識の系はあくまで現象に深く踏み入るためのハシゴであってそれは不要な時は外してもいいものだし、その知識の系と現象それ自体には隔たりがあってその隔たりを少なくするためには知識の系から現象を見るのではなくただ現象自体を汲み取ろうとする、みたいなことになる※10と思うんだが。

※10:この辺は「対象を深く知ることでより深く関わろうとする」のか「対象として操作しようとするのか」のスタンスの違いはあるのかもね※11。

※11:俺的な後者の問題点は「対象は操作されるが自己は変わらない」ような世界観の中にいる事だ。それは果たしてコミュニケーティブなのだろうか??違う言い方をするなら現象に相対する当事者でいるのだろうか??あるいは実体的な世界のダイナミズムから自己を隔絶し、そこから目を背けていないのか??※12

※12:あるいは、ある現象をある説明/知識の系のうちにマッピング可能なものとして仮想的に閉ざそうとするなら、それはその現象それ自体や、その現象がその系にマッピングされるに至ったプロセス/経路を認識の埒外に置きすぎてはいないのか??※13(それってある現象に関与しようとした時に生じる素朴な畏怖や敬意を欠いている感がある。)

メモ / 日々 / 暮らし方


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です