2016年11月20日 - 80

暮らし、家族、死者について

暮らしていこうとする時には、特に何かに守られているわけではない状況、で自分(達)がやってくのに何をしないといけなさそうか、何をしてくのがいいか、という事を基準に考えるのがベターなように思う。その際、既存の慣例(言い方冗長?)や、慣例に基づく感情や行動はおそらく拘らなくていい。

そのようでいようとするなら、多少なりとも世界の中に自分の身を投げ込む事になる。既存の足場にこだわってたら、あるいは既存の足場に立ち守られる事を望んでいたらやった事ない事は出来ない。自分で何かを出来るようになるためにやらなければならない事の全てをやればいい。あるいは重要なもののために自分の立ち位置、守られた位置を譲ればいい。自分の身を投げ込むってのもヘンテコな表現だけど。まあジャンピングダイブ的なこう。

基本的に守られた場所にしかいられないorそういう事を周囲に要請するってのはまだ子供だ。あるいは自分の力が弱っている非常時のみの行動だ。大人でいようと思うなら、他を守れるような風になろうとしないと。前書いた書き方ならホストをやれるようでないとというか。ゲストではなくて。主体性ってのはそういうのじゃね?と思う。

(守られた場所で)私を活かせ権利的なものをよこせと喚くのはどうしようもない。自分で何かを活かせるようになった方がいい(俺はねw)。そして今出来ないならそれが出来るようになる努力をすればいい。今出来ないのは残念な事だがそれはそれで構わない。今出来ないからといって出来るようになろうとしないのは非常に残念だ。

経験的には、自分のなかのある心理的反応ははじめから与えられている訳ではない(ものもある)。自分の中にある諸々の反応のうち、これ強化したいなと思うものを継続的に強化しようとしてはじめてそれが動くようになる、って事はある。自分についてはだが、そういう練習をしないで、何かを出来るようになるとはあまり思えない。自分が重要だと思える価値観や感覚を、ちゃんとキープしたり深くしていくために、無数の事に当たり諸々の感情を感じながら、それ以外の(重要だと思えない)感情を選ばない練習ってのは、俺には大事だと思える。

出来れば、死者にも生者にも同じように振る舞えるようになろうと思う。俺の意見では、世界は今生きている者のためだけのものではない。生きている者のためだけの利得を考えるのではなく、自分が滅んでいなくなってもどこかに、これ大事じゃねーかなと思える何らかのものが届くように振る舞う努力をしてもいいんじゃないかと思う。あるいはその思いがどこかへ届くように日々の所作を重ねる事は大事じゃねーかと思う。そういうのが自分の芯の一面になってくんでないかと。

そういう芯みたいのがないと、生者のために動いたとしても、考えられる利得って表層的なものにとどまりそうな印象もある。自分なりの世界観を組み上げるための素材がしっかり練れてないっつうか。

骨子の話でいうと、既存のどういう名前が付いた箱に収まってるかではなく、実際に自分で力をつけるのが大事。箱にから出ても箱の名前と関係なく自分で動けないとな、と思う。

日々


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