2016年11月21日 - 80

土について その4(メモ置き場)

ざっくり印象だと、知ろうとするから分からない、という事があるように思う。全ての角度から対象を分析し尽くし終えたとしても、それが「知ろう」という姿勢で臨まれている限りは開かれない領域/コミュニケーションがあるっつうか。そのコミュニケーションを失って、何を以て知ったというのか、てとこはそのうち書けたら書いてみる。

極端な言い方をすれば、多分そこには、語られる対象はなく、語り手しかいないのだろうと思う。あるいはそこにはあるものを認識のマップにマッピングしようという能動的?な行動はあっても、そのあるもののありようを見て声を聞こうという受動的?な行動はないのだと思う。

あるものを、既存の解釈のうちに組み入れようとするのか、既存の解釈は破棄してそれの声を聞こうとするのか(そして必要ならその声も取り入れて解釈/認識世界を再構成するのか)、てのはおよそ違う。前者に対象がいる余地は(既存の解釈にあった分しか)ないってもんだ。ついでに言えば、既存の解釈に全てを当てはめるなら、そこでは新しい事は(認識世界においては)一切起きないんじゃないかと思う(その者が認識世界を生きているなら、それはその者にとっては新しい事が起きないのとニアリーイコールだろう)。あるいはそれをやってる者はそこで何にも出会わない。

仮にそのような認識世界から実体世界が働きかけられ変化を受け、いえぱ作られるなら、それで出来た世界ってのは外見がどうだろうと本質的にはコミュニケーティブではない世界だろうと思う。コミュニケーティブな世界とそうでない世界とは、いえば全く違う。

あ、ちなみにコミュニケーティブな世界=優しいだけの世界、ではないと思うが。

ところで既得権益持った奴って世界が変わらない事を望んだりするよね。ここら辺と何か関係あんのかね。分かんないけど。

ざっくりな例えになるが、表せるもの一切合切を現す言葉があったとして、それが現す事ができないのは、その言葉が消えて無くなった世界だ。その言葉を放棄しないとその世界は現れない。その言葉で語るのをやめないとその世界にはアクセス出来ない。俺的意見だが、言葉の全能性的なとこは失ったとしても、その世界は豊かだと思うがね。

分かる、とはどういう事か。ある事象を認識マップにマッピング出来るようになる事か?それともある事象にアクセス出来るようになる事か?俺にとっては後者の比重が高いんだがね。

あとずっと認識マップのマッピングって書いてるけど、じゃあそのマップの基盤はどう建てられてるのか、ってのは自分なりにまとめときたい。マップを使う事で、(どういう手順で)ものごとをどう遠ざけて、例えば「操作」可能にしてるのかとか、アクセスを失ってるのかとか、ってのは分かっておきたい。まあ俺的には自分にとって重要な領域を復権?しようとしてるんす(偉い偉くないとか、権利の話じゃないから、「権」て感じではないんだが。。。)。

三段論法が仮に正しいとして、ではそれはなぜ応用や敷衍出来るのか。三段論法ははみ出す可能性はないのか。全ての人間は死すべきものであり、ソクラテスは人間であるならば、ソクラテスは死すべきものである。という話は、ソクラテスがちょびっとだけ人間でなければどうなるのか。あるいは人間という名詞的カテゴリの妥当性が保証されなければどうなるのか。その名詞的カテゴリは、いえば認識世界の仮想的ルールではないのか。あるいはソクラテスと同じ話で、ロバと馬の合の子はロバなのか馬なのか。あるいは遺伝的突然変異は。それでは困る奴もいるのかもだが、俺はそういう名詞的カテゴリの正しさの保証がない世界でも生きていける。俺の感覚でいうと示唆されるものが全てではないのか。その示唆に名前をつけるとしても、その名前が名前足る確証はどこから得たのか。例えば数でも、思わず5が6より大きくなったり足が生えてどっかにいったらどうするのか。そのような可能性は排除しきれるのか。排除し切れるとしたら、そうし切れる(ゲームルールとでも言うような)保証は(信念を除き)いずこからやってきたのか。世界はいつでも名詞的カテゴリを逸脱する可能性を孕んでいるのではないのか。そこで保証に足るのは示唆されるもの、感情、経験、そういったものの全てと、いつ崩れてもおかしくない信念、執着、愛着といったものではないのか。

ここで、ルールを決めないとやれないじゃないか、という意見も(当然)あるかもだが、なお聞きたいのは、前提足るルールがなければ本当にやれないのか、という事だ。ルールを都度発見し、動き、ルールを壊し、また発見し、手探りで自分の行動が合っているかを探り、応答を探し、確証ないままにそれでも何らかのものを信頼しようとしながらやっていき、失敗し、また発見し、それを重ね、以下略以下略。。。のようなやり方では出来ないのか。

示唆には保証はない。いえばそれは確度の問題だし、完全な確度について話そうとするなら無限後退になりそうだ。つまりその保証を保証するものは何で、保証の保証を保証するものは何で。。。みたく。ところで保証がない事と、信頼出来ない事は別の事だ。どこかに保証が無くても十分信頼出来ると思える/感じられるものはあるだろう。少し違う話になるかもだが、何かを信頼するかしないかを判断するのは自分自身であって、相手がどうかとか保証のある無しは最終的には関係ない、って話かもしんない。だから何か示唆されるものを信頼するかどうかは、対象がどんなんで、自分がどう思ったり判断するかによる。多分。こんなの当たり前的な話かもだが、まあ俺らは多分そういうちょい不安定で動的なとこにいる。

もし俺があるゲームのプレーヤーなら、そのゲームのルールを知ったり、ユニットやカードの動かし方に精通する事はプレーヤーとして役に立つだろう。そして俺がゲームに素晴らしく精通してめっちゃ色んな事が出来たり分かるようになった時、果たして俺はそのゲームの外に出ているんだろうか。それともずっとゲームの中にいるんだろうか。俺は後者だと思う。ゲームの中で完成度を高めてもゲームから1歩も出てはいないなら、その時俺の世界は本当に広がっているのだろうか。多分ノーで、ある器の外に行くには、その器の外に行く事が必要であって、器の中をいくら満たし尽くしてもその器より外には行けないのではと思う。ちなみに器を満たせるようになるってのは、同質的なパターンに無数のものを帰せられるようになっただけのような気もする。そこに初めからあった同質的なパターンのバリエーションが増えただけというか。ただこの辺は具体的にはよく分かってない。なんとなく、同質的なパターンが打ち壊され変わるには、器の外に触れたり行ったりしないとなんじゃね??って気もするがよく分からん。

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