2016年11月24日 - 80

土について その5(メモ置き場)

アフォーダンスが取り立てて好きではないんだが(多分)、世界については「これは何か」という問いよりも、「これらの知覚は自分に何を示唆しているのか」という問いのがまともな事が考えられそうだと俺は思う。その方が、対象が何であろうと、そこでどのような事が起きているのか、という事にフォーカスが当たりやすい。

それと、自分では分かりづらいんだが、例えば俺が石とかだったら、多分俺は何を示唆されてもそれが何かを示しているとは感じないで、ころっと転がってるだけだろう。俺がこういう奴だから世界がこのように立ち現れているし、俺がこういう奴だからその立ち現れたものに奥行きをこのように見ている、ってのはあるだろう。

そこには知覚や予感があるだけで保証はない。というか、その保証の無さ故の不安定さ動的さも合わせて知覚され、予感になっているように思う。なので、自分の中に認識(あるいは仮想的ルール)を形作り、それで世界を捉えようとしても、それもまた保証の無い行動になっているように思う。その保証の無さを示す事は多分出来ないんだが、かといって保証があるという事もとりたてて示せないのではと思う。何をいってるかというと、俺が知覚(示唆)や予感(示唆から提示される奥行き)の世界にいるならば、俺が言えるのは「この世界に保証は無いだろう」という不安定な推測に留まらざるを得ないだろう、って事だ。しかしそれとは別に、知覚や予感の強度というのはあって「これはきっとこうなのだろう」という事は、時に十分に強く感じる事が出来る(これは経験上の話)。

その不安定さを拒否って、仮想的ルールで全てを捉えられる事にしてみる、というのは、俺の感覚からすると、実体的な現象から目を背けている感がある。それが実体の不安定さから逃避して、仮想ルールの中に籠ろうとしているのだとしたら、それって実体的な世界に対してコミュニケーティブではない。あと不安定な場所の上に安定した風なもの置いても、それってやっぱり不安定なままのはずなんだが。平らな板の上にブロック乗せたら安定するだろうが、柔らかい土の上だとそれって安定しないと思うんだが。そして、そこで土の柔らかさを排除した語りをしようとすると、その語りでは土についてはいつまでも語れなくなるのではと思うんだが。はじめに何かを排除した上でそれについて語ろうとしても、それは語った風な事は出来たとしても、その何かへのちゃんとしたリーチは出来ないのではと思う。それははじめの排除を取りやめないと、その何かへリーチ/アクセス出来る可能性は出て来ないだろ、と俺は思う。

そんな訳で、俺は自然科学が結構アレだと思ってます。認識の不安定さ、柔らかさをその語りの基底から排除しようとした時点で、生きた世界を語れる代物ではなくなってる、と俺は思います。まあそこら辺は目的次第って事にしといていいと思うんで(※)、生きた世界を語る以外の事やってればいいんじゃないすかね。あと個人的には、認識の不安定さ、柔らかさをその語りとかの基底から排除せずに世界をがっつり見たり、関わったり、やり取りしたらどうだろかとか、そういう状況で自分はどういう風な事をどれ位出来るんだろか、ってのはとしては自分としては関心あるとこ。

※:排除しようとするのはどーぞ自由になんだが、土台が不安定ぽいならその上に乗ってるのものは(ry、と思うぜー。

保証がなくとも信頼する、あるいは信頼関係を構築する、もしくは信頼関係を構築する努力を行ってみる、という事があると思う。穿った見方をするなら、対象を信頼しないから、対象の外部に保証を求め、その保証も信頼できないのでさらにその外部に。。。。という事はあるように思う。ただおそらく、世界に保証を求めるのではなく、世界と信頼関係を構築する努力をする事は俺には重要ぽく思える。それには保証を求めるのを止める事、(無条件に全面的に信頼するのではなく)対象の脆さとある種の強靭さ(レジリエンス的な)を受けた上で信頼関係を構築しようとしてみる事などが、そういった関係性への導線になるように思える。

多分なんだが、世界に一方的に何らかのありようを求めるのではなく、こちら側も信頼関係を構築する努力をしないとって感じだ。世界が総体として生きものっぽい反応をする場所なら、こちら側が信頼しようとしないと、あちらも信頼を返さないだろう。

少し話はずれるが、例えば製品開発とかで何でも(?)「便利、らくちん、簡単、お手軽、かっこいい、速い、強い、云々」みたいなのを並べ立てるアレな人達がいるが、目の前の小さなものを全て是にすれば、遠く大きな是につながるってものじゃない。それって使い手(?)が楽に楽になるだけじゃねーかで、しかも楽に楽になる事が中長期的に見て使い手のメリットであるとは一概にはいえないので、開発者として彼らはちょっと滅びてよい。そうではなく、遠くの大きな是を見据えて動こうとしたときに、例えばある種の困難さを受け入れるとか、目の前の小さなものが非になるような事は余裕である。そういう遠くのもの、あるいは深いもの、あるいは大きなものを見据える力のねー奴が何でも便利にしたがるんだが、モノホンに大きな是を提示しようと思ったら、その過程にある非、つまり困難さ、不便さ等を受け入れてもらわなくてはならない。てのが俺意見。そこを、つまり大きなコンセプトと、大きな是と、小さな非を使い手に伝え納得してもらうのが開発&マーケの腕でしょうがと思うんだが、馬鹿者はそういう風には思わんらしい。彼らには世界がこうなったらいいのでわという視座はなく、目の前のものを簡単便利以下略にする目線しか無いらしい。てのは俺的には開発者としてアウトなので、開発者として彼らはちょっと滅びてよい 。

そのように(?)何かをするときに、目の前の小さなものを是にするのではなく、自分がやろうとする事をやる事、てのが大事だ。そこに自分にとって非、つまり負荷や負担になるものがあっても、それをやろうと思うなら別にいいんでないかと。多分こういうのって、信頼関係構築云々に関係ある、ような印象がある。リスクを取るとか取らないとか、負荷があるとかないじゃなくて、リスクがあろうとなかろうと負荷があろうとなかろうと自分にとって大事な事をやろうとしてみるっていう。俺の場合だが、リスクがあるから逃げますみたいな奴は信頼出来ない(そういう奴には、その事象から逃げるのは結構だが、おめーのコア、大事にしたいものは何なんだと聞いてみたい)。

予想だが、生きものが生きようとする推進力?は、リスクがあるから回避するという行動を推進する力よりもちょい強いかもな印象。結果的なものだからかもだが、でないと進化で魚類が陸に上がるとかはなさそうなイメージ。もちリスクを全て受けるのが是って話じゃない。しかし全てのリスクを回避するならもう死ねというか、それって生きてないすねって感じなので、例えば生きようとした時に選ばなければならないリスクは何か、って事だ。またそれは言い換えれば、生きる事に何らかのリスクが生じるフィールドにちゃんと立ってるかって事ともいえる。守られてるならそういうのは無い。誰か/何者かが肩代わりしてくれているからな。

しかし大きなお世話なんだろうが、守られる事を望む奴は与えられた、守られた世界から出なくて満足なんだろうか。自分で世界に立ってみようとしないまま死んで満足なんだろうか。比喩だが、それは何者かによって作られた(何者かってのは彼ら自身を含むって事で)諸々の意味での卵の殻のなかで死ぬという事ではないのだろうか。土の上で生きて死ぬのではなく。

土の話でいうと、コミュニケーティブである/あろうとするってのは、それがコアそのものか分からないが、方針としては重要でないかと思う。

ただ適当予想だと、真にオープンてのがオープンもクローズドも含むように、真に?コミュニケーティブってのはコミュニケーティブさも断絶も含むんじゃないかなと。これも適当予想だけど、そのように真にAならばAも非Aも含む的でないと、Aはそれ自身の力によって自身を破れず/破られず、ずっとそのままでリニューアルされないんじゃないかと。ちょっと違うかもだが、ダンスも躍動と停止の双方があって踏み込んだ躍動感が生まれる。あと俺武道はよく知らんけど(ダンスもよく知らんけど)、静と動があってのモノホンの動とか、剛と柔があってのモノホンの柔とか、そういうのあるんじゃね的な。ほんで動だけの動でなくモノホンの動や、柔だけの柔でなくモノホンの柔のうちにのみ展開できる様相(もしかしたら新しさが生み出される様相)ってあるんじゃねかと適当予想。

操作的であろうとするのとコミュニケーティブであろうとするのは違う。操作的であろうとするなら、(ロジカルタイプ/レイヤーの上下関係には気を払わず)自分の中に対象のモデルを作って、対象が実際にどうであろうと、そのモデルをベースにアクションすればいい。コミュニケーティブであろうとするのは多分そうではない。少なくともロジカルタイプ/レイヤーの上下関係に雑ではいけない。この言い方はモデル的になってしまうが、例えば俺と何かがいるレイヤーがあり、俺が何かを説明するレイヤーがあるとする。このレイヤーは異なるレイヤーであり、上位関係の比喩でいうなら、前者が下に後者が上にある。上のレイヤーは下のレイヤーを支えていない。あるいは前者が一次情報で後者が二次情報だ。重要なのは二次情報レベルで優れたモデルを構築する事ではなく、一次情報にアクセスする感覚の精度を上げる事だと俺は思う。もち一次情報と二次情報の行き来は大切だ(一次情報へのアクセス精度を上げたり、ともすれば分散的になりがちな一次情報のざっくりしたまとめをしておくためとか)。しかし二次情報を以て、一次情報を包括的に説明する事は出来ない。それは情報の流れを間違えてるとも、内部から外部を説明しようとしてるともいえる。比喩的にいえば、俺が「うちの親は俺に似ておっちょこちょいでw」っていうようなもんだ。似たのは俺であって親じゃない。これは誤謬だと俺は思う。

操作(特に精度の高い操作)のためには、対象であったり様々なものが定義されていた方がいい(操作というより設計図を引くような事かもしれない)。しかしコミュニケーションのためには、対象が定義されている必要はない。それは無数の分からなさに直面しながらでも行おうと出来る。いえば、操作の場合は、ロジカルタイプ的な誤謬をやってでも二次情報で一次情報を包括的に語ろうとした方がやりやすい。それはコミュニケーションとは違うと俺は思う。コミュニケーションの場合は、一次情報、つまり自分が体験出来る世界の全てを、二次情報によって包括的に語ろうとしたり二次情報に基づいてアクセスしようとしても、それはおそらく自分の認識(の情報の入口)に(論理的なあるいは認識的な)蓋をして一次情報へのアクセス経路を狭くしてしまうだけでないかと。例えばそれを認識を閉ざすというのなら、俺は認識を閉ざしてしまいたくはない。世界を優れたモデルに帰してしまうのではなく、経路を開いていたい。

しかし二次情報を使う事もまたコミュニケーションのありようであるので、そこら辺も踏まえ始めると、何かこう、ごちゃっとして切り分けるのめんどいwでもその辺まで目線に収めないと色々踏み込んで分からん気がする。

例えば二次情報が行うのは一時情報を示唆する(非包括的に示す)に留まる、というように認識するのと、一時情報を包括的に示す、というように認識するのは、全く違う。それは量的に異なるのではなく、論理構造的に完全に別物になっている。後者は二次情報が一時情報を覆って包んでいる(風に見せかけている)。前者はそうではない。後者はおそらく論理構造の誤謬をその構造に持ち(ほんとは持ててないはずなので、持った風になってるというか)、前者はおそらくそうではない。

ただこの頃、土について色々形に出来て、前よりも、自分がずっとどうアクセスしたらいいか分からなかったけど、アクセスしてみたかったフィールドに近づいて来た感じがする。これ俺的には10代かそれより前位からやってみたかったんですがねw相当時間かかっちゃったしバカな事たくさんしてきたが、とりあえずここまで来れた。それはグッド。

テキストにするとアレかもなんだが、声にならない声、言葉にならない言葉、そのようなことが起きる場所、そういうものは俺はあると思っていて。そういうのを自然科学のような言葉あるいは精神、あるいは言葉自体が持つ認識の限定性、あるいは言葉的な認識の限界性によって、無いことにされたり封殺されるのが我慢ならなったので、そういうのへのアクセス経路を、あるいはアクセス経路がどうなってるのかを、ファンタジーでもカルトでも文学でも美術でもなく、出来る限りうやむやにせずにロジカルにしっかり開いてやろうと。そういうのは思ってるw

例えば俺が世界がどれ程優れたモデルで説明できるようになったとしても、世界の手触りを失ったなら俺は死んだも同然やで。そのような方法は俺にとっては完全に失敗で、そうでなく、世界の鮮やかさをしっかり伝えられるような、かつロジカルな(てかうやむやにしない)見立て方ってのがあると思ってる。そういうのをちゃんと自分のうちに確立させておきたい。俺は世界の手触りを失うようなあり方で生きてたくはないので。

メモ / 日々


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