2016年11月27日 - 80

風景、光景について その1(メモ置き場)

風景ってのは無数の情報ベクトルの重なり合いだ(俺的には)。陰影、明暗、色相、奥行き、色温度、光の重なり、影の重なり、様々な肌触り(風とか空気の微妙な動きとかな)、無数の音、響き、匂い、温度、湿度、風向き、柔らかさ、硬さ、ものの移動速度、生き物の有無、虫の有無、木の有無、人の有無、等々。。。等々。。。の重なり合いと関係性が、それを提示されるもの/受け手の生き物に、様々な印象を与えたり推測を喚起する。あるいはそれらは無数の様々な、言葉にカテゴライズされない意味を、あるいはそれを受ける生体にとってのその世界/その光景の生体的意味を、あるいはその世界/その光景が生き物にもたらしているありよう+もたらし得る可能性を伝達/示唆する。そこで伝達/示唆されるものは、別に言語的カテゴリのいずれかに精密に嵌るようなものとは限らない。そこで起こる事、喚起される印象、感情、推測は言葉のありようには限定されず、広がりを持ち、また風景が移ろうと同時に移ろっていく。

俺の目の前にある世界は「私は世界です」と名乗っているわけではない。そのような方法で光景は現れるわけではない。そうではなく、無数で様々な情報の提示のされ方が、その全体的なパターンの傾向として、(この光景/状況は)〇〇のようだ、と感じさせる印象だ。もちろん提示される可能性は、光景によって一意に決まるわけではない。受け手が何者か、どういう文脈にいるかも関係するだろう。言い換えれば、風景/光景/世界はある受け手のものだけではない。俺の想像においては、それは全ての受け手に異なる様相を提示する。

また、風景/光景からもたらされる可能性は重層的になり得る。というかほとんどの場合重層的ではないかと。例えば柿があるとして、柿色とヘタの緑色が示す可能性、食えるものだと知ってるのでそれ故に示される可能性、これが知り合いの好物とか知ってるのでそれ故に示される可能性、等々の無数の可能性が重層的に編み込まれた情報ベクトルがそこで提示/示唆/伝達されている。それに名前はない。あるいは柿という名前も情報ベクトルの一部とも捉えられる。

言葉もその無数の情報ベクトルの一部とも捉えられる(ただ感覚情報とは、ロジカルタイプや提示構造はちょい違うと思う)。言葉は情報ベクトルのなかでも、何らかの可能性をある程度強力かつ(言語マッピング的には)明示的に示すものともいえる。ただ、情報ベクトルによって提示される可能性はある可能性に収束するとは限らない。まとまりなくふわふわしたものかもしれない。無数の可能性を孕んだものかもしれない。

風景/光景は、それが提示している可能性が、それが提示している可能性の全てだ。しかし可能性は可能性で会って、それは全てを開示しているわけではない。この曲がり角の向こうがどうなっているかは明らかにされていない。木や建造物の背面は見れない、ある匂いがどこから来ているかを特定しきる事は出来ない(こともある)、等々。しかしそれでも、おそらくだが俺らはその可能性に対して、経験や推測を織り交ぜながらアクションをしている。それは大仰にいうなら、常に分からなさに対して踏み出してるってことだ。

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