2016年11月28日 - 80

家畜について

※:俺は家畜育てた事ないんで、現場の人がどう感じるかとかは伝聞や想像の範囲内っす。良くない言い方があったらすまん。

例えば「家畜は人の役に立つもの」という言い方があるとする。家畜って抽象的だから牛さんにさせてくれ。

これは俺からすると、牛なるものと、人なるものがいて、まあ多分その語り手も人なんで、そいつにとっては「牛は(語り手を含めた)人の役に立つもの」って事になる。

その場合、語り手は「語り手を含む人なるもの、に、牛なるもの、は役立つ世界」を想定している。そしてまず、牛をその図式から捉えている。さらにまた、語り手自身も、自己を、自己言及的に、その図式から捉えている。

ちょい言い換えると、牛も語り手も、あたかも語り手の認識世界/イメージの図式のように動くように捉えている。

ではその時、語り手はどこにいるのだ??そして牛はどこにいるのだ??

俺の意見では、語り手も牛も、その認識世界の図式うちにはいない。そして語り手も牛も、その認識の通りかどうかは分からない。牛さんがどんなものかは、認識世界の図式を外して、牛さんと関わらないと分からない。

また例えば俺は、俺と牛さんを分け隔てる根源的な理由が分からない。根源的じゃないとこにはそらあるが、それは例えば人なるもの全般と、牛なるもの全般を分け隔てそうな理由とは限らない。それは俺と牛が生命として平等という事ではない。それは概念であって、その概念のうちに俺も牛さんも含まれるものではない。ただ、同じような土の上、場所の上に立っているんじゃねってとこにいないとわけが分からん※1。俺意見では、俺の認識世界の中で俺が牛さんより上でも下でも横でも斜めでも、そんな事は実体としての俺にも牛さんの位置を何も規定しない。いいとこ、その思い込みによる俺の行動に適当に影響及ぼすくらいだろう。

※1:保証を求める系の自己言及的なループに入るだけ。

そういう風に立つ時に、俺にも牛さんにも、名詞的カテゴリのうちにカテゴライズされるものとしての名前はないんじゃねと俺は思う。

ではそういう時に牛さんはいわゆる家畜なのかというと、俺にはよく分からん。しかしそういう状況でも、牛さんがいわゆる牛さん的な姿で飼われてて、そして俺がいわゆる牛飼いや屠殺業やってる的な奴だったら、市場でドナドナしたり、殺して食べ物にしたりするんだろうなと思う。それは牛さんが家畜として人の役に立つものだから、っていう事じゃないと俺は思う。

ところで、例えば俺が何らかの認識の図式に則って牛さんに対してアクションしたら、それは、いえば図式のうちの牛さんではなく、土の上にいる牛さんに実体として力を及ぼす。責任といういい方をするのなら(このいい方はあんま適切でないんだろうが)、俺はそこで図式のうちの牛さんではなく、土の上にいる牛さんに対して、そのアクションによって起きた全てについて責任があると思う。

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