2016年12月7日 - 80

メモ:数式と桜について、他

■数式と桜について

例えば3+4=7という式があったとする。これは3が3で、4が4で、=が=で、7が7で、あと暗黙的な数式のルールが成り立っているなら妥当なんだろう。ところで3に足が生えて歩いて行ったりしないのか。

3がどっかに歩いていくと、+4=7になるので間違いorイミフになる。アホな事言いたいわけでは無くて、これは「3が3で、4が4で、=が=で、7が7で、あと暗黙的な数式のルールが成り立っている」という事が静的で動かないものである、という事を前提に、あるいはそれを信憑/信頼して組まれた認識の一形態だ、って事にさせてくれ。

少し補足すると、これは「無数の、あるいは全ての可能性のうちから、上記以外の可能性を排除して、それが静的で動かないものであるという事を前提に組まれた認識の一形態だ」って事にさせてくれ、って事になる。

しかし、桜は桜ではない。もうちょいいうと、桜自体は「桜」という言葉で表せる以上のものを孕んでいるかもしれない。それは俺にどうこう言えるものではないんだろうが。ただ俺の印象では、言葉/コード/認識として描かれたものは、ある意味ではそう描かれた以外の可能性をどこかで切り捨てて、そのように描かれている。

また特に、自然科学系統のものは、この何が起こるか分からない世界※1から、ある状態を切り出して、そこを固定的で静的な前提としてものを語っているように見える。

※1:色んな可能性を否定しなかった場合は、全ての事が起こり得る、というよりも、何が起こるか分からない、って風になる印象。

このように切り出されたもので出来た体系が、その手前の状態を語りえるかどうかってのはゴチャゴチャするから置いとく。ただ俺は、自分がいるのは、そのように静的に切り出されたもの(あるいは認識)の上でなく、その手前の、もっと無数の可能性があり得る世界でないかと感じる。

また言えば、そういった「無数の可能性があり得る世界」が足場でないと、俺的には何がなんだか良く分からなくなってしまう。あるいはそもそも俺らは、世界からごく一部の可能性を切り出してそれで体系を作る手前で、世界の全ての可能性を追いやる事なく世界に向き合うような事がベースにないと、自分が作り出した体系に自分で乗っかった気になって(自己言及ループ風の状態に入って)自分の足場を失う、ような印象がある。

世界からごく一部の可能性を切り出して、それを利用可能に、置換可能に、操作可能にする、それはそれで文字通り利用価値のある事なんだろう。しかし価値ってのはそれを使用する者にとっての価値であって、そうでないなら別にそうではない。そして俺の意見では、世界は別にそれを使用するもののための世界ではない。

また俺意見では、世界からごく一部の可能性を切り出して他を破棄した時点で、そこには、その手前の世界のありようは失われているような印象もある。「『ゲーム』とは世界からごく一部の可能性を切り出して他を破棄した上で組み上げられるものだ」って話※2かもしれないが、ここは「ゲーム」という枠組みを持ち出して語れる/アクセス出来るようなものではないと思う。それは枠組みを持ち出している時点で操作的であって、プロトコルを前提にした話っぽくて、本質的な意味でコミュニケーティブではない。言い換えれば、分からなさ/可能性に対して素朴な敬意を払いつつ向き合う/臨む姿勢ではない。

※2:あるいは「ルールや枠組みが無いと話せないじゃないか」って話かもだが、前も書いたが、それは本当か??では例えば、言葉の通じないものと意思疎通を図る努力というのはあり得ないのか??ルールや枠組みの無いところから、手探りでやり取りをしようとする事はあり得ないのか??俺はそうではないと思う。むしろ何らかのプロトコルを前提にせずにコミュニケートする努力をする、という方が本質的とも当たり前ともいえるのではないか??

あと俺は、個人的には、作られたルールの上に投影された世界であったり、作られたルールとして組み上げられたそのルールの世界よりも、自分で触れてこんな感じだろって思える世界の事を知りたい。この理由から今の俺は自然科学※3はそんな好きではない。でも自然科学的な探求的姿勢は好きだけどな。

※3:あるいはあれは、自分で作ったルールがどこまで組みあがるか(数学)、またその組みあがったものの上にどれだけのものが乗っかるか(自然科学)、をしようとしている風にも見える。とりあえず印象レベル。

■提示される可能性とコードについて

世界が今提示されている無数の可能性の全てを提示しているとして、また俺らの認識が(俺らに感知できる)それらの全てをぼんやりとでも認識しているとしても、俺らがコードとして使用するのは、それらのうちごく一部のものでしかないし、またおそらくコードとして加工された「元々提示された可能性だったもの」とも捉えられる。

コードには、その使用目的がある(事が多い)。単なる伝達だけではなく、もっと色々な理由、例えば社会的理由、生物的理由、個人的な何らかの理由。俺らがいる場所の無数の圧力を受けた結果であったり、欲求や欲望に沿った理由※4がある(事が多い)。

※4:そういった圧力どうこうではなく、あるいは圧力によって伝達内容を変形させる事なく、単なる伝達を単なる伝達として実行する、というのは一つの、とても重要な事な印象がある。またその伝達を行おうとする者であろうとする、というのも一つの、やはり重要な事な印象がある。これはこれで欲求や欲望の一つのありようなのかもだが。

コードにはその使用目的があって、俺らはそれを可能性の加工品として組み上げてるのだとするなら、そこで「コードは、可能性を汲み上げる/組み上げる/示すのに用いられた、常に暫定的な可能性の姿(を表す加工品)」だと捉えるのか、それとも「コードは常に固定的な俺らの認識の基盤」と捉えるのかで、大きく世界の見え方は異なるように思う。

後者は、俺にしてみればだけどれど、コード的な整合性のうちに、可能性の姿を隠蔽してしまっているように、言い換えれば世界への目線を閉ざしてしまっているように見える。同じく俺にしてみればだけど、あえて断定的な言い方をするなら、コードは可能性から生じた/作られたものであってその逆ではないし、まして可能性はコードのうちに内包し、隠蔽し、それを覆いつくせるようなものではない。そう思うのは目が腐ってるからで、可能性は常にひらけている、ように俺は思う。

■コード/認識について

俺らは多くの場合、何らかの事象/可能性を、自分の認識の地図の上に整合的にマッピングしようとする。このようでないと「取り扱いが難しい」とは思う。しかし利用可能性がある形に事象の姿を自分の中で変形させること、をする手前で、加工済みではないそのありように対して向く事は出来るんじゃないかと俺は思う。ほいで、実際のところ重要なのは、あるいはこういう言い方をするなら意味※5を成すのは、加工されたコードではなく、加工されていないその姿なんじゃないかと。

※5:コード体系のどこかに収まる、という事ではなく、実効的というか、あるいはものが伝わる事というか。

■フッサールについて

なんか俺、自分の考えてることがフッサールってオッサンにちょっと似ている印象。現象学やった人。目力強い。このオッサン「学問以前に日常的に直感される『生活世界』(Lebenswelt)の基盤」とか言ってるので俺的好印象。信憑こそ生の基盤とかいってるらしいのでナイスガイといえよう←偉そうw

以前ちょこっとかじった程度だけど、時間あったら一回くらいちゃんと本読みたい。あとギブソンっていうアフォーダンスのオッサンの本も読みたい。

■アフォード/可能性と名称について

アフォーダンスって、日本語にすると可能的関係性みたいなそんなん。俺訳だけどな。

アフォーダンスとは「動物と物の間に存在する行為についての関係性そのもの」である。例えば引き手のついたタンスについて語るのであれば、「”私”はそのタンスについて引いて開けるという行為が可能である」、この可能性が存在するという関係を「このタンスと私には引いて開けるというアフォーダンスが存在する」あるいは「このタンスが引いて開けるという行為をアフォードする」と表現するのである。要点は行為の可能性そのものであるため、そのタンスが引いて開けられるのだと示すインターフェイスを持つか否か、ひいては”私”自身がそのタンスを引いて開けることが可能だと認識しているか否かは全く関係ない。タンスに取り付けられているのが「引き手に見えない、あるいは引き手として使用できそうもない引き手」であっても、”私”に引いて開ける事が可能ならば、その両者の間にアフォーダンスは存在するのである。 by Wikipedia

例えばドアってものは、引く事、押す事、開く事、閉じる事、外に通じる事、内に籠る事、等々をアフォード/示唆する。

のではない。俺的には。

引く事、押す事、開く事、閉じる事、外に通じる事、内に籠る事、等々を示唆するものを、俺らは時にドアと呼ぶんじゃねーか、というのが俺的印象(だからそれらを示唆しなくなったものは、俺らはドアと呼ばなくなったりする。壊れたドアとか、かつてドアだったものとかになる)。

それは、いえば世界に予めドアというのがある、のではない。世界が様々な可能性を提示してるけれども、その一部を切り出したものを俺らはドアと呼んでいる、って印象。そして、そのように名付けられないにしても、世界が提示している無数の可能性ってのがある印象。

その可能性の束の一部を、俺らは言葉として表して伝達しようとしているけど、それはホントに、ごく一部に過ぎないというかなんちゅうか本中華。

そしてまた、ドアが予め世界にあったわけではない、いえば自明でない、のと同じように、おそらくだが、全ての表現のうちに示される関係性も、世界に予めあったわけではない、いえば自明ではない、んじゃないかと思う。

■家畜について

例えば家畜と肉の消費者の関係性は自明ではない。それは歴史的な産物であったとしても、それは、俺らがそこにあぐらをかけるような代物ではない。というよりも、それは、例えば俺らのスタンスの中に、何度も何度も再構築/再構成され続けているから、そうなっているのだと思う。それは歴史的な産物であったとしても、それを今、そしてこれから可能にしているのは俺らの一つ一つの判断/行為なんじゃないかと云々。

その意味で、例えば牛豚を殺しているのは俺ら自身だし、その判断のありようと結果を、いえば責任を、あるいは因果を、当然俺らは負うものだと思う。ちなみに食肉には俺は全く反対しません。どっちでもいいっす。ただ例えばこういう事を誰かさん任せにして、自分の手は汚れてないと思って生きているのは非常に気分が悪いって話です。それは、俺らが自分のいる地平で自分の判断で牛豚を殺している(、という世界の片棒を担いでいる)ともいえるし、あるいは俺らは牛豚を殺したり彼らが死ぬ地平に足を付けて暮らしているともいえる、と思ってる、っていう話です※6。なんか話ずれたかも。まあいいやw

※6:まあそんなん言われんでも当然だわ、と思う人はもちそれでいい。ちょっと嫌な書き方かもだが、牛豚が謂れなく死ぬ世界ってのが成立するなら、それを当然と思う人も、その隣の赤の他人も謂れなく死ぬ世界も当然成立すると思う。そこに人だの牛豚だのの区別は無いというか、まあ牛豚にそれやってんだから自分が謂れなく殺されても当然文句いわないっすよね、とは俺は思う※7。もち俺も食肉反対しないので、自分が謂れなく殺されようとしても、抗うだろうが文句はいいません。徹底して抗うと思いますがw

※7:しかしなぜ、人は特別で、牛豚に起きている事、というより起こしている事/やっている事が人に起きない/やっちゃダメと思える人がいるのか、全く分からん。例えば生命皆平等とかいってるなら、それに則ってそれは当然起きると思うし(別に則らなくても起きると思うが)、てか当然その状況受け入れますよねと俺なんかは思うんだが、なんか知らんが彼らにはそうではないらしい。こちらがあちらを殺す世界はありえても、こちらが殺される世界はあり得ないらしい※8。馬鹿ですね。

※8:俺からすると世界はそんなもんで、こちらもあちらも喜んだり悲しんだり殺されたり生きたりする/してる、んじゃねーかと思うんだが。そういうとこに向き合ってなんぼなのでは。世界のそういうとこに向き合わないで、自分は特別であって人権的権利的な特別ボーナスがあると思っている方々の人権とか、俺には微塵も価値のないものやで。それって世界に向き合って自分で打ち立ててねーじゃん、どっかから楽してパクってきた風で全然中身無いじゃん、と思います※9。

※9:はーまじリスク背負わない方々の中身ナッシングの権利とか嫌い。滅びて良い。

■メッセージについて

威嚇や受粉は名乗らず行われている。それらはコードのレイヤーを介さない(ともいえる/捉えられる)。それらは「意味の体系」によるマッピングを介さない(ともいえる/捉えられる)。それらは伝えるのに別レイヤーのメッセージを必要としない。それらは、いえば冗長ではない。それらは直截だ。

■自然科学のようなものについて

自然科学のようなものは、現象に名を付け、今度はその名を元に、その名の上に知見を積み上げる事で、名付けられる前の世界を、名づけによって覆い隠してしまったようにも見える。

■アフォーダンスについて

ギブソンの提唱した本来の意味でのアフォーダンスとは「動物と物の間に存在する行為についての関係性そのもの」である。例えば引き手のついたタンスについて語るのであれば、「”私”はそのタンスについて引いて開けるという行為が可能である」、この可能性が存在するという関係を「このタンスと私には引いて開けるというアフォーダンスが存在する」あるいは「このタンスが引いて開けるという行為をアフォードする」と表現するのである。要点は行為の可能性そのものであるため、そのタンスが引いて開けられるのだと示すインターフェイスを持つか否か、ひいては”私”自身がそのタンスを引いて開けることが可能だと認識しているか否かは全く関係ない。タンスに取り付けられているのが「引き手に見えない、あるいは引き手として使用できそうもない引き手」であっても、”私”に引いて開ける事が可能ならば、その両者の間にアフォーダンスは存在するのである。 by Wikipedea

という感じなら、俺らがやっているのは、世界からアフォーダンスを発見して組み上げていく行為、ともいえるんじゃねーかと云々。そしてあるアフォーダンス(事象)を発見して、別のアフォーダンス(コード可能な身振り)と組み合せる事で、俺らは世界からアフォーダンスを切り出して、そしてそれを抽象的なコード的身振りに置換可能という事にしちゃって(あるいはそこにアフォーダンスを見出して(またおそらく、それを特権化/優先化(あるいは先立つものと認識)しちゃって))、ほいで俺らは情報/あるレイヤーを介して別のものを示すもの、をやり取りしてる風なんでないかと云々。なんか俺同じことばっか言ってるかもだけどこの辺気になるというか俺的には大事云々。

■言葉/コード/認識について

俺は元々本好きだし、言葉は結構好きなんだが、しかしそれでも、言葉は事象に先立つんだろうか※10??言葉も事象の1つのありようではないのか??

あるいは同系統の話で、認識は事象に先立つんだろうか??認識も事象の1つのありようではないのか??

っていう風に認識まで持ってくと違うかも感はあるな。。。認識は事象に先立つものではないという推測も成り立つが、認識を事象と捉えるならそれは全ての原点的なI/F(インターフェース)かもね的な。まあI/Fっていうだけあって、当然俺だけあっても、世界だけあっても、認識は成り立たない。それは俺と世界との関係性の境界面として切り結ばれるんじゃねーかと思う。と見せかけて、しかし「俺」や「世界」ってのは、そのI/Fからその奥行きを推測/想像/予感した時に結像される風な、ちょいふわっとしたものに何となく名前を付けただけのものかもしれない。その辺は今は深く踏み込む気はないけど。

※10:現象としてではなく優先度として。

■感情について、何を大事にするかについて

何となくのイメージだけど、まあ世界が言葉で掬い取れるようなものではなく、またコードで表わしきれるべくもないもの、として、じゃあそれで世界はOKですか、俺はOKですか、っていうとそういう事ではなく、まあ世界はそれはそれでいいかもなんだが。

コードで表しきれるべくもない場所で、あるいは土の上で、こういうのが俺は大事、っていう価値観/スタンス/意志/等々。。。を、あるいはこういうのが大事っていう感情を、しっかり判断したり作ったりしていかないとな、ほいで自分なりに行動していかないとな、とかはなんとなく思う。まあ愛情ですよね大事なの、自分なりでもいいから愛情。これ俺が言うかとも思うが、ほいでもそうじゃねーかと思う。

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