2016年12月18日 - 80

メモ:花が咲く場所について、他

■花が咲く場所について その1

方便てのは「一般に、目的のために利用する便宜的な手だて」って事らしいが、世界は別に便宜的な体系を提示しておらず、世界/そこで提示される何もかも、をそのまま提示している、ような印象がある(というかこれすらも俺には分からん)。

提示されている世界を何らかの(意味と無意味、価値と無価値とを問わず)便宜的な体系に写し書いて、そこに書いてあることから、今度は世界を捉え直すと(仲介者を経て、っていってもいいかもね)、それはあたかも世界がその便宜的な体系に即して動作しているように見えるかもしれない、が、それはおそらくそうではない。

例えば、寒さ、暑さに何か意味はあるのだろうか??俺はないように感じる(構造(動的な構造)や機構はあるかもだが)。

そこで2つ思うのは、まず1つ目はあんま重要ではない気がするんだが「その便宜的な体系もあらかじめどこかにあったのではなく、世界とのやり取りの中で生じた/作られた」ものであろう、という事。分かりやすいのが自然科学みたいなもの。でも多分色んな文化ってそういうとこある。

そしてもう1つは、その便宜的な体系などどこにも無くても※1、例えば花は咲いたり、生きものは死んだり生まれたりするのではないかという事(というかそういうレベルのやり取りの中から、例えば便宜的な体系も生じた/作られたんじゃないかと)。

※1:このいい方は語弊があるけど、それについては後述。

その後者の、便宜的な体系などどこにも無くても動くもの達の世界、ってのが、言ってみればリアルな世界なんだろな、という印象はある※2。まあそのリアルな世界にも奥行きは(そしておそらく構造や機構も)あるんだろうが。

※2:もちこのいい方も語弊がある。

■花が咲く場所について その2

そしてその、便宜的な体系の無い世界の出来事の構造や機構にも、例えばレイヤーのようなものがある印象がある。例えばシナプスの発火に、重み付けや重なりがあるとか。言い換えれば、便宜的な体系を「レイヤーを持つもの」と捉えて、じゃあ世界から便宜的な体系のレイヤーを剥ぎ取れば、そこにはリアルな世界が残るか、というと、

それは確かにある意味ではそうかもなんだが、その残された「リアルな世界」でも、情報の伝達形式の一部は、レイヤー的な構成/機構を取っているだろうな※3、という印象がある(ただそこには名前は無いかもしれない。これは俺が勉強不足で良く分からん。多分神経伝達物質とか受容体とか、生物の情報伝達のあれこれ辺りを知ろうとすれば多少は掴めるような印象)。

※3:いってみれば、レイヤーを用いた情報伝達/情報処理は、生物にとって結構深い領域も含めて使われるものではないかと。だから言葉のようなもの、自然科学のようなものを剥ぎ取ったところで、レイヤーを用いた情報伝達/情報処理は残るというか、あり続けるんじゃないかなー、みたいな。

■花が咲く場所について その3

そしてまた、視点を変えるならば「便宜的な体系のレイヤー」もリアルな世界にある現象の1つだよね、という捉え方も出来る。世界は「便宜的な体系のレイヤー」と「リアルな世界」に分けられているわけではなく、それらはある面では一緒くたになってる、というか。

じゃあそうなると、花が咲く場所はどこですか、って事になるんだが、俺にもわかんねえw

■花が咲く場所について その4

ただあえていうなら、花が咲くとしたら、提示されている世界を何らかの(意味と無意味、価値と無価値とを問わず)便宜的な体系から捉え直す、という事が効力を発揮しない世界のありようの中or便宜的な体系によって現象が疎外されていない世界のありようの中or便宜的な体系によって疎外される事なく現象が動作する時/状況、とかなんじゃね??という印象がある。上手くいえないが、諸々のノイズ※4に邪魔をされず、現象そのものが現象そのものとして噛み合い動作するような時/状況っつうか。まあでもこれだと、ちょっと局所的過ぎる&視界が狭い見方かもしんない。

※4:例えば刑事ドラマでは分かりやすい動機が示されないとストーリーとして成り立たないのかもしれないが、その動機が観客に示される事は本当に必要なのか??犯人にしか分からない、あるいは犯人にも分からないような動機でしかも観客にとってイミフの動機ではまずいのか??同じように、現象の動作を何らかの意味の体系、分かりやすい体系ににマッピングしてストーリー付けをする事は、意味のマップによる現象の姿の横領じゃねーかと。ほいでその横領が横槍入れてくるのに対応していると、現象そのものが現象そのものとして噛み合うののえらい邪魔になるんでないかと※5。

※5:例えば周囲がどう変わっても、春が来たら木の芽が吹くみたいな、そういうのってある。ノイズ的な部分よりも強靭に木が動くというか。また、人同士の喧嘩やその前後の心情の在り様のように、ノイズを含めて動くものもある。また、チェーンソーで木を切り倒せばいずれ芽は吹かなくなるように、周囲の力/ノイズ/現象がある現象を殺すような事もある。

この辺はゆっくり自分の中で形?にしていければと思います(/ω\)

なんだろう、形にするっていうと、もののありようを静的にしてしまうようで違うんだが、曖昧だしどうなってるのかわけ分からん、という感じではなくなりたいというか。その動的な姿を自分なりに描けるようになろうっつうか(/ω\)

■パターンについて その1

パターンを見出そうとする姿勢と、パターンを固定的なものだとして物事に臨む姿勢は異なる。そこに「パターンがある」と捉える事と、「そのパターンは、固定的というパターン的状態を取っている」or「そのパターンは、流動的というパターン以外の状態?を取っている」と捉える事、というのは異なる。

■パターンについて その2

自然的でも直感的でも〇〇的でも××的でも、あるパターンが来る/起きる/生じる、のは当然だ、固定的だ、静的だ、不変的だ、とするスタンスは、それ以外のパターンを検知しようとする姿勢※6を欠いている、という意味で、クローズド的だと感じる※7。

※6:パターンの検知というか、細やかなor大きなor激しいor穏やかなダイナミズムのうちに何らかのものを見出したり感じようとする姿勢というか。

※7:ところで、こういったクローズド的なスタンス/状態もまた、世界への臨み方の一つだと思う。対義語的にいうなら、オープンなだけが臨み方ではない※7。その辺まで考え出すとゴチャゴチャするんですが(^^;)

※8:前にも書いたかもだが、とりあえず俺的には「真にオープンな状態は、オープンもクローズドも含んでいる。オープンである事しか許容しない/含まない状態は、真にオープンなのではない」って印象を持っています。これが合っているか/妥当かは不明。

■パターンについて その3

既に分かっているルールを展開してその先を追っていく作業と、(何かのルールから展開されているかなどは分からない)目の前に提示されているものの展開のありようを追っていく作業は、結構違うように思う。前者は既知とされる事/既知とした事が土台にあるが、後者にはそのような土台があるかないかも分からない&土台がもしあるにしろどういった様相かよく分からない※9。

※9:自然科学は後者っぽいが、俺らの日常と違い、観測者が常に静的&観測者による認識は動的に揺らがないものとしているような印象。俺的には、俺らの日常は、観測者自身も含め動的に変化し続ける、そのような場なんじゃねーかと。そのような動的な場から遊離?した静的な観測者って本当にいるのか??その意味で、自然科学的なものの見方って誰のものの見方なんだ(共通了解の前提に基づいた見方、という回答はいらねっす)??もうちょいいうと、「誰が」「どこから見た」見方なんだ??例えば「(俺らがいる)動的な世界の外側」にいると仮定された「(俺らではない)静的な観測者」による見方だとするなら、(極端な言い方するなら)そんなどこにもいない永劫不変の幽霊みたいな奴から見える(とされる)見方ってのは、俺らにとって本質的に有効な見方なのか??※10ある面では、自然科学等が展開しても、それを展開している人はずっと置き去り感があるんだが※11。

※10:本質的に有効ではないが、暫定的に有効な見方です、ってのなら分かる。ところでならば、本質的に有効な見方を作る努力はどこにいっとるんだ??

※11:俺的には、永劫不変の幽霊は関与するけど俺は関与しない世界観より、ある程度俺も関与する世界観のがいい。前者ばっかになると俺が疎外されまくって何がなにやらだしな※11。まあ前者は「他者なるものが意識において抽象化される」とある程度勝手についてくる印象だがな。それを明示的にすると世界の外の静的観測者の出来上がりっつうか。

※11:ちなみにだから宗教良いよねというつもりは0です。宗教はどっかの誰かに思考を預けるようで俺は好きではない(神社とか宗教施設をうろつくのは好きだけど)。俺は自然科学的なものの見方自体は非常に好きなので、そういう風にやってみたいっす※12。

※12:上手くいえんが、俺は、どこにもいない誰でもない永劫不変の幽霊から見た世界ではなく、俺が見ている俺が関わっている世界について知りたいと思うし、そこに深く踏み込んだり歩いたりするやり方を過度にパーソナルな形でなく形にしてみたい。これも上手くいえんが、1つには、自分らの認識を(幽霊みたいなのに預けて)なおざりにしない時に構築される自然科学みたいな事(なんつうか、不思議を神様の秘跡とか神秘とかで片付けない見方/どっかに自分の思考を預けない見方からものごとの認識/理解を組み立ててみるやり方みたいな)を、自分が出来るなりでいいんでしっかりやってみたいっつうか。

■働く場所、暮らす場所、花が咲く場所について

結局ガチンコで生きようとしたら、そしてそのための無数の行動を働くとか暮らすとかいうのだとしたら、働く場所/暮らす場所/花が咲く場所は、煎じ詰めればある程度同じ領域なんじゃねって気がしなくもない(/ω\)

生きるための努力をすることと、生きた世界に(真剣に、ってか真摯に?)臨むことはどっかで軸が重なるというか。合ってるかは不明(/ω\)

■地獄について

俺は、世界はある面で地獄のようだ的な事を思う人だが、単にそこを生きようとする事と、愛情をもってそこを生きようとするって事はちょい違うと思う。俺はなるたけ後者の様でいようと思うけど、やたらとむずいw

あとなんつうか、自分なりでいいんで、地獄を歩こうとすることも大事だと思ってる(´∀`*)ウヘヘ

メモ / 日々


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