2017年1月29日 - 80

メモ:精神と感覚情報について

※:別に俺は本当に精神があるかないかとかどうこうでなく、便利な用語なのでここでは便利な用語として使います(てか一種のマジックワードだと思うのであんま使いたくはない)。精神がどうこうはとりあえず置いといて、そう言われるものが起動する(?)ロジックを追いたい感じっす。

例えば、今このとき※1の感覚情報が、精神のメモリに展開されるような姿(例えば記憶のような)になっていくとする。すると、精神のメモリに展開されるような姿と、感覚情報は、異なっている。そこで、メモリに展開された姿を元に、感覚情報を捉えようとすると、そこで順序が逆転する。つまり感覚情報→精神のメモリに展開された情報、が、精神のメモリに展開された情報→感覚情報、になる。

※1:時間概念ではない。それは後付けのフレームワークなのでいらんですw「時間」とか「空間」とかあんま好きじゃない。

例えばそこで、展開された情報をベースに構成された認識が認識の全てだとしてそれ以外を感知する事をやめると、そこに適合しない感覚情報は感知されなくなってしまう。

仮に精神がOSのようなもので、bootstrap的に立ち上がっている場合、精神の元は感覚情報の束みたいなものって事になるor感覚情報の束みたいなとこにいる(とりあえずそういう事にさせてくれ)。そこで精神が、自己が認めた感覚情報以外をシャットアウトしたなら、それは、精神が元々いた感覚情報の世界のまるごと、を否定している事になる(これで合ってるかは置いておいて)。

自己の大本を否定して、その上に構築される世界というのは、しかし、結局自己の大本を否定している以上、自己(のルーツ)を否定して出来たものにならないのか??


ところで、精神が無いと、精神は何かを感じられない。

そしてまた、精神があると、精神は全てを感じられない。

なぜなら精神は、自己自身を感じられないからだ(多分ね☆)。

蛇が自分の尻尾を咬む時、蛇は自分の胴体や頭を咬めない。

なぜならそこを尻尾を咬むのに使っているからだ(蛇さんに聞いてないが俺にはそう見える)。


精神がbootstrap的に感覚情報の束から起動している場合、精神はそこで自己を形作っている(事にさせてくれ)。そうなると、精神は、自己を形作った分だけ、世界を感じ取れない。

また精神は、認識を組み上げるのに使用したリソースの分だけ世界を感じ取りづらくなる(もしかしたらね)。

また精神は、そこで形成した認識の指向性が示すところ以外の何かを、感じ取りづらくなる(もしかしたらね)。

精神が全てを感じるには、精神が無くなる必要がある。精神が全ての指向性を示す全てのもののありよう(っていえばいいのか)を感じるには、特定の指向性に特化した姿を破棄する必要がある(かもしれない)。

なんで、精神はある(存在する的な「ある」って事で)ようになっただけ、また特定の指向性に特化した分だけ、自らがそもそも起動した世界を感じ取れなくなる(かもしれんない)※2。

※2:もちこれらは別々っす。精神が自己がある分だけ世界を感じ取れなくなるのと、特定の指向性に特化した分だけ別の指向性を感じ取れなくなる、ってのは(組み合わさってるかもにしろ)ちょい別の話って事で。


なので、起動後の精神を語っても何も起きない。そこにはいえば、アプリケーションがあるだけだ。

そこで精神が精神を語ろうとしても、アプリケーションを語るアプリケーション、を語るアプリケーション、を語る。。。の連鎖になる。ほいで多分、そこではメモリ的なものを使ってる。

そうではなく、bootstrapを逆行するようにするんじゃないかと。ここのロジックを変なパラドックスに行かせないで、深く踏み込むためには(ほんとにそれで合ってるか分からんけど)。

するとそこにはアプリケーションは何も残らない。多分ね☆

もっと原初的な感覚世界がある/広がってるような印象。印象だけでよく分からんけど。

精神がものを感じ始めた時、精神は世界の全てを感じられなくなっている、と思う、ので、精神が最も世界を感じられるのは、ある面では、起動し始めのしょっぱな、なんじゃないかと。つまり精神のボリュームが最も小さいとき。あるいはまた、メモリのボリュームも最も小さいか無しのとき。


そこで残存する原初的な感覚世界を仮に身体性というとして、身体性が何かを感じている状態と、感じていると認識/把持している状態は、ちょい異なる。

前者はだだ流れていくだけかも(ちゃんと考えてないからとりあえずそう書いときますすんません)だが、後者は(文字通り筋力で)把持するように一種の緊張を、いえば硬直につながる身体状況を伴っている。

緊張していれば何かを把持出来る。しかしその姿勢を崩せない。そうなるとその姿勢で出来る以外の事が出来ない/その姿勢で強く感じられるもの以外のものがあまり感じられない。把持をやめれば無数の姿を取れる。しかし把持していた何かは失われるかもしれない。

精神なるものが認識を展開するとき、それは把持された、いえばある面で硬直した姿なんすかね。

硬直しているとその姿勢で感じづらいものが感じづらくなる。特にやわらかかったり微小な感覚が。それが例えば自己が立ち上がって来たbootstrapの根本でも、それがやわらかいものなら感じづらくなる。

しかしそうではなく、俺らはおそらく根本では、認識の展開を解除したところの、動詞的で動的な(ほいでやわらかいものもある??)世界にいるんじゃねーかと。認識の展開を行っているような、名詞的で静的で硬直した世界でなくて。

認識の展開を行っている間は、認識の根本へはしっかりとは行けない(多分ね☆)。なんつうか、壺に手を突っ込んで中のまんじゅうを握っている間は、手が壺につっかえて抜けない的なこう(ちょっと違うか。。。)。

なんつうか、そういう(認識の展開をして世界を静的に見立てていない)やわらかい世界、(名詞などで)区切られていない世界で起きること/生じることが、俺には重要な印象。

しかしそこにももちろん(例えば)物質とかがあって、化学反応みたいなのしたりするんだろう。ただそれは、科学の目から見た「化学反応」ではなく、やわらかい世界にいる当事者にとって「世界で起きる/起きた/起きている現象」なんじゃねと。

もしかしたらだけど、それは説明(というマッピングが)できない。そこにマッピングするための認識のマップがないものにとっては、それは世界でそのように起きたこと、でしかない。

そしてそれで十二分だ。なぜならそれは、マップによってそのありようを(意味などとして)簒奪されなかったからだ。

なんかこの辺大事かもしんない。意味が簒奪されないときに、それ自身に起きる現象/運動とか、その展開とか、それがまた別の何か(の現象/運動)と出会って起きることとか。なんか、ちょい深いとこに来れてきた感ある(´∀`*)ウヘヘ


それが、その現象であることを簒奪されない事。何らかの意味の体系にマッピングされて、意味を与えられて/現象としての姿を奪われてor隠蔽されて、意味として語られない事。

そういう状況じゃないと、それに出会えん。それが意味の体系によって何らかの意味を与えられているなら、与えられている分、それの姿は意味に奪われている/隠蔽されているor俺ら(の認識/姿)がその分固定されている/硬直的になっている。

あんま純粋だったり理想的(妨害が入らない的な意味で)なのは良くないと思うが、上記はとりあえず書いとくっす。まあ妨害が入るのもフツーに起きる現象(といえばいいのか。。。)だったりするからな。仮に簒奪を妨害/外乱とするなら、外乱に耐えうる現象でないと生存できない(現象が生存ってのもヘンテコかもだが。。。)ような印象もあったりなかったり。


ところで簒奪されなかったとして、そこに残る/あるのは、理想的で素晴らしい世界なんだろうか??俺はそうは思えない。生きものの世界、生きた世界なのだから、そこには(そこにも?)残酷さや美しさや強さや弱さや豊かさや貧しさなど、諸々のありようがあるはずだろうと思う(もしかしたら意味に簒奪されない(意味を剥奪されている/意味のオブラートを失ってるともいえる??)、という面で、そのありようはちょい機械的っつうか生きものの姿のちょい剥き出しな感じや直截さ(っていえばいいのか??)が現れている/露呈しているのかもしれないが)。


俺らも現象であるのに、いつの間にか現象の観察者/観測者のように振舞っている

現象としての俺らはどこかに追いやられているようだ

その、現象でなくあろうとする力学は、どう働いてんすかね


そこで起きている事が、何らかの世界観によって意味を与えられ、現象としての力学を別のマッピングに置き換えられ、現象としての力学を見落とされるようになったり、それに伴い現象としての力学の機能/ありようをまともに扱われなくなる事

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