2017年2月6日 - 80

メモ:関係性について その1

本来なら俺らの周囲の世界は俺らにとって意味がある。意味があるってのは、アフォーダンス的な感じで。

それらは俺らに何らかの状況を差し出す。良くも悪くも。あるいはそれが快でも不快でも。

俺らはそこにいて、それに巻き込まれている。本来なら。

本来ならってのも変な話ってか言い方だが、俺らは、その状況/周囲の世界に巻き込まれて、その無数の種類の数多の力/力学を受けて、その押し合いの中にいるんじゃね??と感じる。

が、なんか知らんけど、そういった力学の外に自分がいる気になって、それらを観察や記述するような感じになっているとこもあるんじゃねーかと。

たとえ話だがそういう力学の外にいる感じってのは、周囲の世界が、自分に無数の感情、情動、変化などをもたらしうる無数の種類の数多の力やありようを差し出してくるのではなく(言い換えれば「変化を及ぼし得る力による、どういったリスクかも分からないリスクのある場」に自分がいるのではなく)、

周囲の世界を、動物園の檻の中にいる動物のように、自分にはなんらかの危害を加えて来ない、リスクの無いものとして捉えている/認識しているようだ。変化を及ぼし得る力が、自分(の認識)には波及しないような感じ。

すげえアバウトにいうなら、そういった状況が成立するのは、何らかの安全性が担保されている状態だ。ちょい言い方を変えれば、自分が生きる世界や場のリスクに対処する必要の無い(と自己認識している)ならそういう状況が成立する。観察者的だっていってもいい。

その安全性の担保がどこから来るのかはまだよく分かんない(これもすげえアバウトに言うと、自らの認識世界の堅牢性への過信/確信などから来るんじゃねと思う。というかそこを確信的にさせる機構が認識の立ち上がり時にあるのかもね。ところでしかし、その確信を担保するものはどこにいるのだ??)。

そこら辺の、感覚的な世界と、ある種科学的な知見で組み立てられた世界との関係性については、フッサールというオッサンは、科学の成立基盤である生活世界についての存在論的考察を通してゴニョゴニョしたらしいっす(その辺書いた文献読んでみたい)。

とりあえずフッサールが何書いたか今は知らんけど、俺的には、その生活世界※1ってのは、どういったリスクか分からないリスクのある(自然界ってそうだよね)、自分が少なくとも観察者だけとしてではなくそこにいる、世界が自分にとって(アフォーダンス的な意味で)無数の意味を提示する、そういう場/領域じゃねーかと思うんだが、

※1:俺は「生きた世界」っていうのが割りと好き。この本のサブタイトルの影響だと思う。

そういった場/領域の力学に巻き込まれ、そこで押し流されたり、自ら動こうとしたりする事、またその中で、無数の感情/情動を感じる事、そういった極めて生きもの的なありようや行動/活動(が行われる世界)が、俺らの認識やありようの基底にあって、

ほいで世界を観察者のように見られるってのは、そこら辺を基底としつつも、そこら辺を何か適当に隠蔽したところで成り立っている、極めて表層的なレベルでの認識規範/行動規範なんじゃね??って気はする(気がするだけでなぜかorそれがどんな構造(動的構造だか静的構造だかは知らん)で成り立ってるのかはまだ分からん)。


ところでウロボロスは自分の尻尾を咬めるけど、なんでこれが出来るかというと、頭と尻尾以外に胴体があるからだ。そして、頭が尻尾を咬んでいる時に、胴体については何も言及されていない。

こういう感じに、意識的な認識は、自らの認識を成立させている「胴体」を認識の埒外にしているんじゃねーかと。そしてその胴体が認識の埒外にされちゃってる構造がどうなってるかを分かると、基底的な生きた世界から、俺らの名詞的な世界認識が立ち上がっているのかを分かるんじゃねーか、というのが俺推測。

あとこのウロボロスだけど、前も書いたけどウロボロスが自分の尻尾を咬めるのは、胴体に長さがあるからだ。もしウロボロスがボール型ならきっと無理でしょうw

何がいいたいのかっつーと「自己言及できるものはどんなものでも長さがある」んじゃねーかって事っす。例えば数学的な「点」みたいなのは長さを持たないから自己言及できないって事っす。

それでまた何が言いたいのかっつーと、純粋に論理的な存在みたいなのがあるとしたら、そいつは生きもの的な長さを持ってないだろうから(多分ねw)、そいつは自己言及できないだろって話。言い換えると、論理的な観点をベースにして自己言及とか意識の流れを追っかけてみようとしたところで、多分失敗するだろうって話っす。そこに論理以外の性質(これでいうと長さ)を織り込んで、生きものや世界を見ようとしないとダメだと思います。


PCの比喩について。

PCは、ハードウェア→ブート→OS→アプリケーション、って順番で起動する(俺この辺未だにちゃんと分かってないですすみません(T-T))。そこでアプリケーションの言葉でOSを語ろうとすると失敗する。アプリケーションは、アプリケーションが成立した時点でしか成立していない。これは同語反復じゃなく。

アプリケーションが成立していない時点の世界の状態ってのは、アプリケーションが成立していない状態として受け止めないとダメなんじゃね??と。

同じようにか分からんけど、俺らの地図的な認識が成立した時点より手前の世界を、地図的な認識が成立した時点から語ろうとすると失敗するんじゃね的な。

比喩だからこれで合ってるかは分からんが、ざっくり方向性ではいいのかとも思う。


いかなる機能、役割を排除しても、世界が(自分にとって※2)意味を持つ、って事が、少なくとも基底の世界ではあるんじゃないかって感覚がある。それを意味といっていいか分からんけど。

※2:それははっきりした「(認識の地図上にマッピング/プロットされ得る)自分」とかでないかもだが。


論理的に閉じている体系を作るってのは、その論理を扱うやつがいる限り無理だろう。つまり論理体系は、論理体系と、論理体系を扱うものがいないと成立しない。そして論理体系を扱うものが論理的に閉じているわけではないのなら、論理体系が成立する時点で、いかなる論理体系も閉じてないんじゃねーかと。そしてまた、論理体系を扱うのが生きものなら、それは、俺の感覚では、基底において閉ざされていないので、多分だけど閉じた論理体系ってのはないんじゃね??って気はする。


真にオープンってのは、そのうちにオープンもクローズドも含んだ状態じゃないかと思う。


俺は自分を生きた世界から切り離して、認識の閉じた風な世界の中で生きて死にたくはない。世界の姿は所与のものとしてどっかの地図から与えられるのではなく、常に自分で臨んでみないと常に分からない、ってとこにいたいからな。


観察者のようにだけなってしまうってのは、ある意味では、自分自身を生きた世界から切り離してしまう事なんじゃないかと思う。そうじゃなくて、足を土に付けていたいと俺は思う。


すごく個人的な事であんま重要でもないんだが、俺はいちばん初めは学者になりたかった。その後は探検家的なのになるのがいいかと思って、その後で働くのがいいんじゃねと思った。

これは俺的には、学者みたく世界を観察して記述するのも、探検家的に世界をただ単に探求するのも、どっちも与えられた世界を探るだけで主体的じゃないなと思って、ほいで、世界の中で自分が生きていける場やあり方を作ろうとするのが一番妥当なんじゃねと思ったからです※3。ざっくりいうと、与えられた状況を自分なりに変えようとしてみるのが主体的なんじゃねと思ったというかなんつうか。


例えば科学的な知見を自らの根拠にするってのは誤謬的な印象がある。つまり、まず自分がいたとする。これが一番の土台とする。そこに科学的な知見を得たとする。それは土台の上に乗っかったものであって、土台を支えるものではない。これが、科学によって自らを説明できると捉えようとすると、言い換えれば、乗っかったものによって土台が支えられていると捉えようとすると、論理循環になってイミフになる。多分そうじゃない。「まず自分がいた、っていうその自分」ってのが、あるいはその足元の土ってのが、おそらく自分を支える基底的な世界の姿なんじゃねーかと(もちこれは比喩ですが)※3※4。

※3:何らかの/いかなる役割、機能、規範などに覆われる手前の、自分自身の姿/ありように根差す世界っつうか(そこの良さも悪さも美しさも醜さも含めてそういうもんとしてさ。上手くいえんけど)。

※4:例えば俺なんかは、そういう世界に根差さずに、どっかの宗教/倫理/何らかの「自分自身の根差す世界を根としない」規範意識、の規定する死や生を、自分の死や生として生きたくはないと思う。

メモ / 日々


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