2017年2月12日 - 80

メモ:関係性について その2

地図と地形とは、多分同じ素材で出来ている(こういう言い方するならどっちも物質だ。地図とか紙だしな)。いってみればそれらは(本来は、っていえばいいのか??)どっちも地形だ。ただ地図に地図としての役割/機能を持たせているのは、それを見るものの認識のうちになんかのプロセスがあるからだ。

ある地形は地形として扱い、ある地形は地図として扱う、みたいなプロセス。それを成り立たせている部分、紐づけている部分、あと多分なんかを隠蔽している部分があるんじゃねーかと。隠蔽しているってのは、地形を地図で隠蔽してるかもねって意味と、その「地図に地図としての役割/機能を持たせている」っていう認識の機能自体が認識されない、って意味あたり。

ざっくり推測だと、認識はそれだけであるんでなく「認識を認識足らしめているけどそれ自体は認識されない」「認識を成立させる過程で何らかの形で何かを隠蔽した」っていう認識を支援する(言えばより低レイヤーの)プロセスがあるんじゃねーかと。


地図と地形とは異なる。その時自分が体験している事は地形であって地図ではない(この辺はちゃんといおうとすると長くなるのでカット。あと話ずれるけど、俺は地図よりも、地形のうちに見出されるものが好きだ)。

地図も実際は地形だ。地図というのは「地図として扱われている地形」の事のはずだ。なので、認識を下支えするレイヤーでは「なんらかの地形を地図として扱う」やり方が実行されているのではないかと思う。

この「認識を下支えするレイヤー/機能」は、おそらく認識の俎上には明示的には上がらない。なのでそれを知るやり方は、明示的には俎上に上がらないが確かにあるであろう「認識の地盤であるために認識にとって気づきにくい(いえば盲点のような)レイヤー」を探索する事にあるのではと思う。もちこれも、外から見ようとしちゃダメだ。それはアプリケーションの言語でOSやH/Wを語ろうとするのと同じ失敗になる。

例えば脳科学のようなもので意識について語るとき、それは語り手が広げたメモリ上にマップされた「意識のイメージ」について語っているだけで、そのメモリを生成している語り手の意識そのものについては、全くアクセス出来ていないのではないかと思う。

たとえ話だが、人形遊びをしていて、自分の役の人形や、友人の役の人形については話していても、人形遊びをしている当の自分については話していないのと同じような格好を取っているのではないかと。人形遊びをしている当の自分は、人形遊びを成り立たせている/下支えしている領域であって、人形遊びをしている限りは非常に気づきにくい領域だろうから。これも比喩だが、上に「外から見ちゃダメだ」と書いたのは、ここで、人形遊びをしている当の自分の事を「人形遊びをしている当の自分という人形」にして、人形遊びの会話のうちで語ろうとすると、それは当の自分への言及ではなく「当の自分の人形」への言及になるからだ。重要なのは、人形遊びのレイヤーから「人形遊びをしている当の自分」を語ろうとする事ではなく、当の自分(のレイヤー)から当の自分の体験している世界を語ろうとする事だ。

この辺はあまり簡単に線引き出来る領域ではないかもだが、ざっくりこういう感じだと思う。てかこの部分見たくきれいにまとめた風な書き方するとそのまとめ以外に行き場や広がりがなさそうであんま好きくない。あときれいにまとめた風に書くとなんかちょい外している感があるw


俺らは地図を生きていない。俺らは死という文字の上で死ぬわけではない。俺らが死ぬ場所/俺らが生きる場所が、地図ばかりが重視される世界観によって、俺らから隔離されているってのは、俺的にはいい感じじゃない。


言葉を使って、言い換えれば地図的なものを使って意味を伝達するのと、地形によって意味ともつかないメッセージを伝えるのとはちょい違う。

風に当たるのはいい気分だ、と言葉で伝えるものと、実際に(本当は「風」なんてものは地図の上にしかないのだから)空気の動き/どよめき、その強いあるいは微弱な動き、熱さや冷たさ、と、それを浴びて起きる情動や感情、それが起きる感覚、それが過ぎ去った感覚、等々はちょい違う。

神経伝達物質などは、おそらく後者じゃねーかと。つまり、意味としてマッピングされる地図を持たずに、物質の直接の移動/交換、それによって物理的に機械的に生物として励起するプロセス、さらにそこから連鎖する無数のプロセス、というのは、メールのやり取りのように意味を一度マップにマッピングしてどうこうする、というものとはちょい違うじゃねーかと※1。

※1:なんだろ「意味」はない(マッピングされるような地図を持っていない)が「作用」はある(それを受けた対象に対して変化をもたらす/効力を及ぼす、等々)っつうか※2※3※4※5。

※2:おそらく、その作用のレイヤーを、意味のレイヤーから語ろうとするのは、bootのレイヤーを、アプリケーションのレイヤーから語ろうとするのと同じく、残念な感じになると思う。

※3:俺らが身をおいているのは、ベースとしてはおそらくその作用の世界のうちであって、意味のレイヤーではない、と俺は思うんですがね。ただ身なるものが生起するよりも手前に、認識/感覚の根源の姿みたいなのがあるなら、そっちのがより深いかも的な推測。

※4:「認識を認識足らしめているけどそれ自体は認識されない」「認識を成立させる過程で何らかの形で何かを隠蔽した」っていう認識を支援する(言えばより低レイヤーの)プロセス、ってのも作用の世界にあるんじゃないかとごにょごにょ。

※5:意味を介さず作用を伝えるぽいものっていいよね。俺は好き。ただしUDPっぽくなりそうではある。伝わっているか伝わっていないかをマップ(ここでは「参照表」的な感じで)によって確認出来ないのだから。だがそこが良い。ほんとのコミュニケーションて少なくともそういうところを含んでいると思う。参照表が無い世界のなかでのやり取りっつうか※6。

※6:俺のごちゃごちゃ書いたことは、参照表が(成立して)ない世界のありようを、参照表を使って理解しようとしても、それって参照表がある世界のありようから照らした参照表がない世界のありようだから、ちゃんと分かってなくね??てかそもそも参照表があるのを前提に話を進めるのよくなくね??参照表がないとこのありようから話し始めた方がいいんでない??的な事になるんですかね。まあそんな感じでざっくりOKと思うけど※7。

※7:参照表に頼らずに世界に身をおくのって楽しいと思う。なんつうか実感がある。大変だし怖いけどw※8それと、参照表は認識の萌芽ができた時点でその原型は出来るのかもと思う。例えばものを同定する認識の機能/作用とか。ただそれと、世界を見ずに出来合いの(名詞的な)参照表ばっか見てるのはちょい違う印象。世界の移ろい/ありようこそが雑にいえば根拠(というよりはおそらくは基底的な領域)で、出来合いの参照表を眺めたりいじったりするより、その領域に立てる/立とうと出来てるって事のが大事じゃね??って気がするが(例えば責任も何もかも、出来合いの参照表に「責任」って書いてあるから生じるんじゃなく、その領域での出来事のありようから生じるような。いきなり責任てより、ベースは愛着や素朴な愛情とかなのかもですが)。

※8:参照表を持たずに世界に立っても、世界は理解不能なわけではなく、(定型的な手法で分類し伝達出来ないというだけで)様々な作用、現象がそこでは起きているように感じる。その現象に対して、参照表を用いて定型的な枠組みに収めて語ろうとする、というのはある面では抑圧的な行為だと俺は思う。世界の自由さを損なう※9。

※9:蛇足だが、例えば安易に使われる、宇宙とか神とか愛みたいなマジックワードも、俺があーだこーだ言ってきた自然科学とかとは別の、もっと雑でひでえ参照表からなる世界観だったりするように思う。科学主義的な世界観に対置するものとして神秘主義的な世界観があるとしたらそれは多分間違いで、どっちも参照表を使って世界を説明しようとしている点は変わらん。そして安易なマジックワード使うような世界観は多分しょーもないもんだと俺は思っている。そういうのの信者って、神が自由といってるから俺自由みたいな話しそうだけど、どっかに自由って書いてあったらそれホントに自由なの??って思います。それこそ思考の根拠をどっかの誰かに委ねた思考停止じゃねーかと。そういうのやっちゃうのってむしろ、自分自身のありようであったり、自分が生きる世界に自分自身で立つのを投げ出すような事だと俺は思うがね。


どのコンビニにもチョコチップクッキーが置いてあるのが俺はめちゃめちゃうれしい。

メモ / 暮らし方


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です