2017年2月19日 - 80

メモ:生きものがいる場所について その1

■言葉について その1(底がある約束事とその系について)

俺らはある参照表を知る、という事にしよう。例えば、参照表の項目として葉っぱとか桜とかという言葉があるとする。俺らはそんな風に言葉を知ったりする。その言葉たちと、葉っぱと示されるもの、桜と示されるもの、は違っている。桜という言葉で、桜と示されるものをざっくり示す事は出来る。ただそのディテールについては、桜という言葉がどれ位の共通了解性を持っていると感じられるかによると思う。そしておそらく、共通了解性からあぶれたディテール的な感覚については、桜という言葉は上手く示せるとは俺は感じられない。

おそらくだが、言葉/参照表は、約束事だ。その参照表の項目が、何かを表す、という約束事。

その約束事が成されて、桜という言葉が、桜という言葉で示されるものを示す、と了解される事があるとしよう(ところでめんどくなったのでこれ以降、桜という言葉で示されるものを「桜」って書きます。大事なとこなのにすません)。ところで桜という言葉と「桜」は違っている。ただ「桜」は、その約束事が成されている限りは、桜という言葉によって示される。

いってみれば、桜という言葉で「桜」が示されるのは、その約束事をベースに組み上げられた物語の中の出来事であって、その約束事に参加しているものにしか関係がない。いってみれば、その約束事の物語のなかの桜という言葉を紐解いた時に行き当たるのは「桜」ではなく、約束事の姿であったり、約束事を交わした者の姿のように俺には思える。

もちろん約束事を交わした者たちもまた、「桜」と同じ世界にいる、といっていいと俺は思う。だから、約束事を紐解けば、約束事を交わした者たちの姿とともに、「桜」がある世界も立ち現れ得る、とも思う。

ただしかし、その紐解く作業の底(てい)に現れるのは、おそらく「桜」それ自体ではなく、約束事であり、約束事を交わした者たちの姿なのでは、といっていいと思う。すごくざっくりしたいい方にはなってしまうが。

言葉を使うものが、言葉を作り、その言葉で世界を表すようになったとしても、そこにあるのは世界ではなく「言葉という約束事によって表され、約束を交わした者同士に世界の似姿を伝えようとする、無数に織り成されたディテールの幻影/イメージ」という話になる、といってもいいと思う。これが全てでないにしろ。

なのでおそらく、言葉は世界ではない。それは世界の似姿を伝えるための、何等かの約束事を底にした、伝達の体系であって、世界ではない。なので、言葉に接近することと、世界に接近することは、全く異なる。俺はそのように思う。

例えば自然科学は、数式をその底のように扱い、そのモデルを用いて世界を表そうとするが、そこにあるのは数式という約束事を底にした、無数の伝達様式の集まりであって、世界ではない。その参照表にモデルを一つまた一つと加え、より緻密に、より精度を上げて練り上げていったとしても、そこにあるのは世界ではない。世界を、数式を底に、伝達したり表そうとした系であって、それは世界ではない。なので、そこに接近する事は、俺の予測では、世界に接近する事とは違う。自然科学のような方法をとっても、例えば俺は、世界には接近出来ない。俺はそのように思う。

世界に接近するには、あるいは踏み込むには、(数式を底にした自然科学のように)世界のありようではないものを底にした何かの体系を組み上げるのではなく、(自分が感じる/生きている)世界のありようそれ自体に踏み込む必要がある。このいい方は語弊があるだろうが※1、とりあえずそう書いておく。

※1:参照表もまた世界の一部だろうからだ。言葉はただの音だ。あるいはただの文字/記号だ。ただ、これを参照表のように扱う俺らの認識の作用がある。ここを把握しないと、世界と言葉の秘密は分からない、と俺は思う。

あるいは、約束事を底にしてしまったら、世界へは踏み込めない。約束事を底にして世界を探索しようとしても、それによって組み上げた系の底にあるのは約束事だけだからだ。その系は、約束事を展開した系でしかなく、世界ではない。世界へ踏み込みたいなら、約束事を底にせず、自分自身の感覚で世界に踏み込む必要がある、と俺は思う。いかなる約束事も底にしないやり方というのは保証のないありようなんだろうが※2、そうでないと何も分からない。

※2:約束事は、約束事が守られている程度だけ保証されているのであって、そのの保証もまるで万全ではないと思うが。

蛇足だが、申し訳ないんだが(誰に??)この意味では、愛とか宇宙とかのよく分からん物語の系に世界を押し込めようとする宗教っぽいあんなのやこんなのも、数学的モデルの物語の系に世界を押し込めようとする自然科学っぽいあんなのやこんなのも、少なくとも世界に臨む方法ではないと俺は思う。そういった事に関わる人たちがやっているのはおそらく、自分たちが作り始めた約束事を底とする物語の系を充足しようとするようなことであって、約束事を底とせずに/保証を持たずに自分の行動や感覚で世界のありように臨むことではない※3。

※3:あるいは、酷く言ってしまえば、そういった宗教っぽいあんなのやこんなのとか、自然科学っぽいあんなのやこんなのは、ただのノイズ/雑音なのであって、そういったものが無かったとしても、世界は自分にとって開かれた/提示された場なのだ、といって良いと思う。いってみれば、そういう事が信頼感の底なのであって、信頼感は、宗教っぽい(ryとか自然科学っぽい(ryとかによって保証されなくても、世界と自分との関係性として提示されているのだ、と俺は思う。

メモ / 日々


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