2017年4月25日 - 80

メモ:構造/構成について その3

【このメモではまだ全然分からない領域に踏み込もうとしてるので、全体的にだいぶ雑で一足飛びで適当です(;・∀・)】

感覚には奥行きと重なり(情報の冗長性/重複性/redundancy、同一であろう事象を示す複数の示唆)はある。ただそれが確かだという保証はおそらく無い。俺らにとって物事は、あるいは世界はそのように現れているように感じられる。その構成のされ方は、保証があるような構成のされ方ではない。俺らが立っているのは、保証のない、しかし確かに事象は現れているように感じられ、提示されている、そのような世界のように俺には感じられる。

そのように、生きものの情報の構成には、おそらく保証は無い。生きものが、あるいは俺らが世界を探索する時のやり方は、初めに完全に正しい公理を知って、それを展開して。。。というやり方ではない。与えられ、現れた世界を手探りで探るうちにその姿や広がりを知っていき、けれどもその姿や広がりの「正しさの保証」は得られるものではなく。。。というやり方だと俺には思える。もちろん世界の姿の確実さの程度は、得られた情報の重なりのうちに見て取れる※1。しかしその重なりもずっと続き、保証されているとは限らない※2。

※1:例えば、風が吹いた時に、ざあっと音がして、空気の冷たい/暖かい感覚と動きが感じられ、ものが揺れ動く様があるなら、それはただ単にざあっと音がするよりも、実際に風が吹いたように感じられるだろう。

※2:例えば俺には、昼間明るかった場所が暗くなるだけで、音の反響やそこの匂いは変わらないにしても、そこにあった確実さ、安心感が失われてしまうように感じられる。

世界が俺らに現われとして伝えてくる情報の構成に保証は無く、学習の構成に公理は無い、というのが俺の印象だ※3。そしてまた重要なのは、それでもなお世界のうちで無数の事象が起きる事だと思う。保証は無く、しかし確かに起きる/確かに起きているように感じられる出来事、の世界に俺らは生きている、のだろうと俺は思う。

※3:おそらく俺らの世界に触れるやり方は、基底に公理のようなルールを置くのではなく、基底に分からなさが感じられるような、ものへの触れ方だと思う。おそらくそうじゃないとコミュニケーション??が始まらない。コミュニケーションは「既に分かった事にされている何か」に働きかけるやり方(だけ)ではない。それはいえば「どういうものか分からないものに働きかけ、働きかけられ、そこで何らかの伝達が起き得るもの」じゃねーかと。

いってみれば、そこで起きる無数の事象と、そこから伝わるものが全てだ。そこには特に何かが隠されている訳ではない。これは世界は表面的だとか表層的だとかって話じゃない。

無数の事象、が重なり、織り成す世界の奥行きの印象、というものがあると俺は感じる。またそれは単に(消失点のように)あるはずの無い奥行きを示唆するような場合もあるだろうが、そうではなく、抽象度の高い奥行きを示唆する場合もあるのではと思う。例えば生命現象のようなもの。それが抽象的だとしても、それは奥行きとして確かに存在し、また提示されているのだ。おそらく(情報の抽象度が高くて、個々の感覚に落とし込む事が出来るものではないにしろ、)確かなものとして。

そしておそらく、そのような抽象度の高い領域に、例えば生命現象の本質/芯/核や、世界のダイナミズムの本質/芯/核はあり得るような印象がある※4。そしてまた重要なのは、俺らがそういう事から引き剥がされていない、隔離されていない、アクセシビリティがあるって事だ。

※4:例えば生命の多くが栄養摂取と排泄をするなら、めちゃめちゃに単純に言っても、そこにあるのは外界と関与しながらの循環/流通という現象だ。その循環/流通は、一つ一つの事象を追っても見えて来ず、そこで起きている全体の出来事を抽象的に捉えた時に現れてくるものだ。しかし生命現象からその抽象的な出来事を消失させ、個々の要素の動作に分解したら、そこにあった生命は失われているのではないかと思う(ただ、この辺りの話に踏み込むのは急かずにゆっくり行きたい)。例えばごく単純な通風孔でさえ、孔を形成する素材が失われたら「孔の中を通る気流が織り成す姿」は失われてしまう。そして気流は孔と同じく物理的な現象/事象であり、かつ孔よりも(いえば孔が基底に無ければ気流が生じないので)抽象度が高い現象/事象とも捉えられる。あるいは孔とその周囲の空気の流れがある事で、その現象/現れの重なりのうちに、(通常は生じない)孔の中を通る気流の流れ、という現象/現れが生じるというか。この辺はニューラルネットワークの階層モデルなんかモロにそんな感じだけどな(;・∀・)個々の階層の機能は物理的/生理的/プログラム的には同一だとしても、情報処理のレイヤーとしては低次から高次になってって(判別処理の)抽象度が上がってくみたいな(ちなみに相互結合型ってのもあるらしい。あと内部記憶を持つニューラルネットワークてのも面白い)。

例えばそのような抽象度の高い事象を見失った社会の生き方の規範を強制されるのは俺には極めて苦痛だ。そういう抽象度の高い情報にアクセス出来ればそれでいいかっつう事じゃないと思うが、アクセス出来ないのは辛い。なぜならそれは俺らのコミュニケーションの本質/芯/核に関わる出来事だからだ※5。

※5:もし抽象度の高い情報に触れる事が出来ないのなら、感情的な触れ合いであったり、その確かさはあり得なくなってしまう。実際に触れられないとしても確かに感じられるもの、というものが姿を消したなら、おそらく生命現象の何もかもが無くなってしまう※6。それは情報の重なりの中に現れ、それに触れるものに伝わる、重なりによって織り成された事象の本質的かつ動的な姿なんじゃねーかと。また逆に言えば、俺らの感覚や認識が、物事の織り重なりのうちからどれ位抽象的な情報/姿を読み取れるか、触れられるか、ってとこでもあるかもとは思う。あるいはまた抽象度が高い情報という事については、ある(生きものに取っての)状態、といってもいいかもしれない。

※6:これについては例えば、同じもの(例えば神経伝達物質であるタンパク質とか化学物質とか??)でも異なる抽象度の情報を表せると思うけど良く分からんので、出来るだけしっかり考えます(`・ω・´)ゞ

ところでアクセス出来ればそれでいいって事じゃないと書いたけど、これについては夢の中に責任はあるって事だ。俺らの「現実」は、俺らの「夢」と区別がつかない。極端にいえば、そこには確かさの程度の違いしかなく、仕組みはおそらく同様だ。だから、そこで生きるための責任については自らそれを取る必要が、おそらくある。今起きている事が夢でも現実でもそれ以外でも、どんな場合でも。その現実のあり様がどうこうではなく、責任を取る事を決めるのは俺ら自身だ。そしてもしかしたらだけれども、責任を取れるようでないなら/コミュニケーションに向き合えないなら、十全なコミュニケーションは生じないのかもしれない(もちろん不全なコミュニケーションもコミュニケーションなんだろうが)。

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