2017年4月26日 - 80

メモ:構造/構成について その4

例えば赤いフィルムと青いフィルムを重ね合わせると、そこに紫の色が生じる。これは2つのフィルムが重ね合わされるまで無かったものだ。

また風景でも何でもいいんだが、ここに石が、ここに木が、あるいは木々が、ここに影が、ここに光が当たる事がある事で、その場の雰囲気が形成されていく、という事がある。これはインテリアでもいい。がらんとしていた室内に家具を置き、導線を作り、何等かのテイストのあるアイテムを置いていく事で、その室内に雰囲気が形成されていく。ここで形成される雰囲気というのも、各々のものが無ければ無かったものだし、各々のもの1つだけあっても無かったものじゃないかと俺は思う。

そういった、ものの現れ方の方向性/示唆の現われ/情報のベクトル、が重ね合わさり、織り成されるところに、その場がどのような場であるか、という重層的/多層的な示唆が示されるように思う。そしておそらく、この示唆は、俺らが生きたもので認識をするものだから感じられるのだろうと思う。つまり、認識や知覚が出来なければそもそもその場が示す事象を感じ取れない、そしてまた、それが自身にとっていかなるものであるかを感じて評価出来なければその示唆が示すものを感じられない。自身にとっていかなるものであるかを感じて評価出来るのは、その時々の場のありよう/現われ/姿から、危機や安心を感じるものでないとおそらく出来ない。この評価が出来るのが、乱暴に言えば生きたものなのだろうと俺は思う※1。

※1:なので、例えば機械やAIや異形の者だとしても、そいつがいる世界の姿(これは例えばAIなら、そいつがいる仮想世界だとしても構わないと思う)の評価をそいつ自身がそいつ自身の内発的な機構で出来るなら、それはそいつ自身のあり方で世界を評価出来るものという意味で、生きたものなんじゃねと俺は思う。もちそれは意識的なものだけを含まない。例えば植物には意識がないかもしれないが、彼らはどういう方法でか光や水や養分を評価してその姿を変えていく。意識がある/ない、あるいはAがある/ない、Bがある/ないとかではなく、広くそういうのも含むよう捉えようとしないと、物事のロジックの本質的な理解ではなく、馬鹿げたカテゴライズに基づく理解になってしまいがちなんじゃないかと俺は思う。

 

メモ


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です