2017年4月29日 - 80

メモ:心性について その1

例えば認識の起動プロセスがコンピュータの起動プロセスの様な機構としてあるとしたら、それは、ある程度bootが進んでから、はじめて自己認識や自己同定を起こし得る。いってみれば、自己というものの認識や、自己というものの同定が出来る程度まで認識がbootしてこないと、認識における自己認識の姿は生じて来ない。それを反転するならば、自己認識や自己同定が起きる手前でも、認識はある程度bootしている可能性がある、という事だ。それは自己なるものを同定したり認識していない程度の、混然とした認識の基底から立ち上がり、自己なるものと混然とのあわいにある程度の認識がそこにあり得るような事だ。


仮に自然科学的な見立て方/語り方が、主観なるものを無いという事にして組み上げられているものとする。あるいは客観的で確実なものなる地点から語りを進めようとしているとする。ところでその客観的で確実なものを想定するのは主観ではないだろうか。それならば主観を語りの開始地点とするのが妥当な語りではないのか。

仮に主観を私と言い換えるなら、不確実で、しかしある程度は確かにいると感じられる私というものを、そのあり方、姿、感じ方を、無い事にせず語りを進めるのが妥当な語りではないのか。あるいはまた、そのような不確実な私が見て、触れて、生きる世界の姿を描こうとするのが、真っ当な意味で「自然」科学ではないのだろうか。

ただ俺はこのような不確実さを無い事にしない語りを、安易な意味で科学とはいいたくない。科学が万人なるものに共有なる事をされ得る語りを目指しているのだとしたら、俺は自身の不確実さを基底とした語り方のうちに、不確実さを万人に確実に伝えられるような語り方を見出し切れない。

ただしかし、上手く言えないが、(広義の意味で)論理的に語るというのは、けして確実さを保証した地点から語る必要は無い、と俺は思う。むしろ(出来事が不確実だったり、混然と確実さのあわいにあるようなものなら)確実さを基いにした語りを行おうとする事が、語りの姿を曲げてしまう、という事があるのだと俺は思う。現象に正しくアプローチしようとしたならば、そして現象が不確実なら、俺らは不確実さを基いにして語るべきなのだと俺は思う。それが論理的って事なはずだし、その意味で、その語りは科学的であろうとしているのだと俺は思う。


科学についてもうちょいいえば、俺なんかからすると、生きた世界について語ろうとする語り方こそ、俺らの認識をその基底的な領域から捉えようとし、俺らが実際に出会う世界の姿を描写しようとしている点でちゃんとした見方だと思うとこがある。

ある見立て方をすれば、(世界に臨み、その営みの中で科学の組み上げもやっている)俺らの認識の基底的な姿への洞察を欠いて行われる「自然科学」というのは、その語り自身の基盤の姿を検証せず、結果として、おそらくは認識の基底部のあり方を鑑みれば成り立たないであろう論理展開をしている可能性を検証していないという点で(てか俺的には多分してるんだが)、世界を知り、そこに臨み、関わろうとする姿勢として不誠実なのではないかと思う俺的には、その不誠実さは非科学的だって事だと言い換えてもいい。

メモ


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