2017年4月30日 - 80

メモ:心性について その2

生きた世界云々の事をいえば、あんまめちゃくちゃな事を言うのもアレだけど(;・∀・)、ある意味ではアニミズム的な世界観(無機物、有機物を問わず、個々のものに心性が生じる/宿る、とする世界観)というのは妥当な面があるのかも、と思えるとこがある。

例えば、ニューラルネットワークモデルを俺が雑に理解したとこだと、モデル上の各層を成すニューロンは、物理的/生理的にはそれぞれ同じ機能だとしても、階層が上がるにつれて、情報としてはより抽象度を上げたものを保持/伝達する格好になっている。
http://www.gifu-nct.ac.jp/elec/deguchi/sotsuron/taguchi/node6.html
http://www.gifu-nct.ac.jp/elec/deguchi/sotsuron/taguchi/node7.html

例えば、

1.認識の基準を外部化せずに(≒認識に、外部による保証を持ち込まずに)、自らが生きる世界に対して、自らの認識の基底の保証のなさを受け入れつつ臨もうとする態度と、

2.世界の諸々の現象は、単なる事物の要素の集まりに還元できるものではなく、(ニューラルネットワークのモデルの様に)要素同士の連なりの中で独自の情報処理および情報抽象化をしているのかもしれない、とするものの感じ方と、

3.また無数の情報の重なりのうちからそこに抽象的に透けて見えるものを読み取ってしまう感じ方が組み合わされば、

4.これは、世界の諸々のものは自分が保証を以て知りえるものではなく(≒推測しかしようがないもので)、しかしただの事物の要素の集まりでもないかもしれず、

5.また世界の諸々のものは、そのゲシュタルトのうちに透けて見える抽象的な姿が感じられるようにも思える、

6.という事は、世界の諸々のものには心性があるのかもしれない、

7.という世界観に繋がりえるのではないか、とも思える、

というところが少なくともあるので、人は、人やそれ以外の諸々のものに対して、人格(物格??)や心や霊性的な何かを感じたりするのかな??とも思ったりする。だいぶざっくりなんで合ってるかは分からんですが(;・∀・)

これは、ある意味ではアニミズム的かもねと思うっす。あるいは幻影/推測の投影というか、でもその幻影/推測って(認識論的観点から)必ずしも否定できるわけではない幻影/推測であり、あるいはまた、その幻影を(幻影と思わず)信じられるからこそ、つながりor結びつき的な関係性とか、それが思っていたのと違った時の愛憎ってのはあり得るのかも、というか。


目っぽいものと鼻っぽいものと口っぽいものがいい感じに並んでいると顔っぽく見える、というのと、生きものっぽいものが適切っぽい応答を返すとそいつには意志や心があるっぽく感じられる、というのは、抽象度の高低はおいておいて、もしかして結構同じような出来事なのでは??

そしてその、ある静的な、あるいは動的な情報のゲシュタルトのうちに、抽象的なものの姿、その情報のゲシュタルトの核心的なものの姿などを見出し得る、というのは、少なくとも経験的には自然な事なのでは??

それは例えば、木々の中に足を踏み入れてそのざわめきを聞いた時に木々の霊性のようなものを感じるとか、町の光と闇の折り重なりに誘われるような雰囲気を感じるとか、ある人の行動のうちにその人の心が透けて見えるような感覚を感じるとか、音と音との行間に伝わるものを感じるとか、そういう事もおかしな推測/感覚ではなく、その情報/出来事のゲシュタルトのうちに透けて見える抽象的なものの姿を感じた、という点で、経験的には自然である(と俺には思える)上記のような事と、結構同じような出来事なのでは??

無数のものの折り重なりのうちに感じられる霊性、心性、奥行き、違和感、表情、文脈、消失、空白、明るさ、昏さ、手応え、生きた世界の姿のように思える感覚、等々、というのは、幻や気のせいや非科学的な現象とかではなく、経験的には自然である(と俺には思える)上記のような事と、結構同じような出来事なのでは??いえば認識の姿のうちで、非常にあり得る情報の結びつき/情報の読み取りの一連の結果なのでは??

話は飛ぶようだが、死者への喪があるとする。それは死を受け入れ、自己を慰め、死者がいない世界で生きていくための準備期間だとする。そこにあるのはすでにいない死者なるものの死を受け入れる幻だろうか??そうではなく、それは乾いた言い方をするなら、情報処理の一形態だと思う。しかし俺らは、そのような情報処理が行われ得る認識世界に生きている。あるいはそのような情報処理を、時に必要とする認識の姿をしている。それは幻や気のせいや非科学的な現象とかではなく、俺らの生きた認識の姿なのではないのか??

そしてこれは、俺は何度でもいうが、そのような生きた認識の姿こそが基いであって、いわゆる科学的であったり、正しかったり、客観的である見方というのは、生きた認識を基いとして仮に想像された世界のあり方における物事の姿なのではないか??その基いは、繰り返しになってしまうけれど、ある程度不確実である程度確実に感じられるような生きた認識なのではないのか??その基底の姿を押しのけて、客観的もヘッタクレも無いのではないのか??※1

あるいは俺らが生きようとすべきは、そのように仮に想像された価値観を基準とし、逆転的に(そして多分完全な逆転は出来ていないのだが※1)基いである生きた認識を押し殺した風な世界ではなく、生きた認識によって生きられる世界ではないのか??例えば世界がそのような価値観の外部基準化を、あるいは主観の押し殺しを求めてくるとしたら、それは強い言い方をすれば、自己の認識の自死を要請されているという事ではないのか??※2

※1:俺は俺の主観において客観的な世界を想像できるが、もし俺の主観が消滅すれば、俺が主観において想像している客観的な世界も消滅するだろう、っていってもいい。おそらく、客観的風に見える世界でもその基いには主観があって、もし本当に完全に客観的になったなら、つまり主観が死んだなら、その世界は死ぬはずだ。だからおそらく、客観的風に見える世界では、主観は押し殺されつつ、客観が機能する基いとして、ひっそりとでもその機能を失っていないはずだ。

※2:この辺で主観とか客観とかいってるのは便宜的なもので、実体としては主観-客観という(対立風の)関係ではなく、主観とか客観とか分離する前の認識の状態-それが分離可能風になり、主観は主観で客観は客観だ的に語られるようになった状態という関係かもしれない。その辺は今はパス。重要なのは、価値観の外部基準化などによって、あるいは「意味」によって、現象が疎外されない、現象から疎外されないって事だと思う。極めて雑に言えば、俺らは意味ではなく、現象の一部なのだから。現象の一部であり、その動的な関係性のうちで生きようとしている事、その姿、を奪う風の諸々の力とは俺はバトルする気満々です。繰り返し繰り返しいうが、その奪う風の諸々の力も、結局は現象に根差して、そこを誤って解釈した認識に依ってるって事なんだろうけどね※3。

※3:しかし生きものがある意味では「意味の世界」に生きるものであるならば、上記の誤りは本質的に発生しうるものなのかもしれない。つまり現象として生きる事と、意味として生きる事の、ある面での両義性/両面性/不可分さ、というのが、特に生物的/生理的なコミュニケーションの姿を媒介にしたところに起きてくるのかもしれない。

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