2017年5月3日 - 80

メモ:生命について その4

【核心的なとこに近づいて来た感ありますが、そうなるとどうしても見立て方、感じ方のうちに、俺の(極めて個人的な)感情や感覚が強く表れそうなとこがあると思います。そこはまあしょうがないというか、そういう踏み込み方をしている以上そういう風になるものって事でヽ(*゚∀゚)ノ】

ちゃんとした洞察抜きに感覚的な事を書けば、命は命に触れたいのだ※1。

※1:洞察無しで極めて飛躍のある言い方をもいっこすると、生命なるものが、自己というゲシュタルトを繰り返し構成し続けながら自身を展開しようとする幻想のようなものだからこそ、それは、確かなもの、確かな手ごたえ、愛情を求めるのだろうか。

生命と疎外の関係は本質なんだろうか??それともそうではないのだろうか??

命、原現象、疎外、死、コミュニケーション、といった事は、核心的な事なんじゃね的な印象もある。

自然科学的な見方は想像力のたまものだ。そこに人間が介在しない世界、というものを、当の人間が想像している。そのような想像力のたまものの世界に、しかし、人なるものは生きていけるのだろうか。サバイバル出来るかどうかではなく、人間性なるものがあるとしたら、人間の介在の消去から想像された世界のうちで、それは保たれ得るのだろうか??もし保たれるとしたら、その世界を構成した目線においてではなく、(どういう世界であれ)人なるものを消去せずにその世界を生きようとする意志や思いにおいてではないのだろうか??

自然科学の目線や意識というものは、身体を伴わない目線、感覚を伴わない意識のようでもある。しかし感覚を伴わない意識があるのだろうか。それは広大な生活世界から、多くのものを欠いて切り出されたような姿で、誤った形で想像された、眼球や神経網の姿ではないのか。身体を欠いた眼球や神経網というのはあり得るのだろうか。眼球も神経網も手で触れれば(神経網に触った事は多分ないけどな)生きて動いていると感じられるのに??また眼球も神経網も、身体の他の臓器と協調動作している全体の働きのうちでその機能を稼働させているものっぽいのに??眼球や神経網だけ取り出しても死んでしまう。そこには自然科学は生まれない。自然科学を生むのは生きた人間だけだ※2。

※2:ここで自然科学といっているのは「客観的風な視点から組み上げられた世界観」、人間といっているのは「生きもの」と言い換えて構わない。宇宙人がいて科学っぽい事やってるかもしれないしな(;・∀・)、みたいのは置いといて、なんつうか、自己の身体を消し去ったような視点、を想像して、そこから世界の見え方を組み立てるような生きものがいたら、それの全てにこれは当てはまるだろう。しかしそんな簡単に無い事にしちゃいけないものってあるでないすか。無い事にしちゃいけないものを無い事にして世界観を組立てても俺っち困っちゃうんだぜ。。。

意識と身体について理屈っぽい事をいえば、入力系を伴わない処理系というのは機能としてあり得るのだろうか??極めて単純で浅い事をいえば、出力-処理-入力、というのは1セットではないのか??入力系も出力系も持つ処理系が、しかし処理系上では、誤った入力系の姿を仮定しても、実際の入力系はそのような姿ではない姿で機能しているのではないのか??意識がいくら身体を(その認識上や想像上で)消そうとしても、身体は意識の基底として機能し続けているのではないのか??

少し話は飛ぶが、意識上の認識、社会的な認識で語られる善悪や良否ではなく、そういう価値観の枠にはまらず身体は、あるいは俺らは機能し続けているのではないのか??もちろんそのように生きている俺らが、善悪や良否について語ったりするのだが。それでも俺らは善悪や良否で語れるものではない。しかしところで、もし善悪や良否を語る事があるとすれば、その要請は生きる要請や必要からおそらく来るのだ。


生命が、自己保存的あるいは自己防衛的、あるいは自己維持的な働きをするならば、それはある面では、周辺環境と自己なるものとの隔たりであり、それはある意味では、ただその力/姿のままに流れゆく現象との乖離であり、その意味で、力のままに流れゆく現象からの疎外を常に自ら生成し続けているという事なのだろうか。まあそういう視点でいくと、その隔たり/乖離/疎外が埋まるのは死の訪れって事になるんですがね。

仮にコミュニケーションが「自己と、自己以外のものとの疎外が埋まる事」だとしたら、極めて単純に考えれば※3、自己維持的な生命は、その生命活動において自己以外のものとの疎外※4がそもそも前提になるので、この意味でのコミュニケーションは出来ない。そしてまた、(自己が)自己以外のものを取り込んで疎外が埋まったと捉えようとしても、そこにあるのは自己以外のものを取り込んだ自己であって、自己と自己以外のものではない。つまり自己以外のものとのコミュニケーションはそこでは成立していない。

※3:あ、もちここを極めて単純に考えちゃいけねーってのは承知っす。上のは、極めて単純に考えるのではない形でコミュニケーションの領域に踏み込むために、とりあえず前振り的に書いときました(`・ω・´)ゞ

※4:疎外と書いた事について補足。「すべての生物は分子の『流れ』の中の『淀み』なので」あり、周囲の流れの速度や姿がどうあれ、流れの中でバランスを取ろうとしながら、その淀みを自ら再生成し続けようとするもの、みたいな見立て方をベースにした上で、その周囲の流れの速度や姿への、バランスを取る※5中でのある面で抗いや隔たりを疎外と書いた感じっす。リンク先の本機会があれば読んでみよかな。

※5:このバランスって書いた事の内容って重要かもな印象。つまり自己維持などのためにやる事は、ただ単に抗うだけでなく、時に抗い、時に取り込み、時に流され、時に巻き込まれ、時に混ざり、時に隔たり。。。みたく、色んな事をやってるのかもしれない。てか印象的には多分そう。


ところで、身体は、あるいは生体は、上に書いたような「分子の流れの中の淀み」でもいいし、俺風にいうなら「生理的な幻想」でもいいんだけど、そのような観点からいくなら、生きた自己へのある意味での不安の底の無さとというのは、こういうところにも起因しているのかもな印象。

身体あるいは生体が、自分自身が動的平衡の系であるとか、あるいは(同様だが)「一定の入力のあるときにだけその構造が維持され続けるようなもの」みたいなのが何となく分かるなら、それは、その(生きているという)構造が担保される保証がおそらくどこにも無い事も、なんとなく分かるのでは的な。

それは自身の生命や存在に保証がどこにも無い事を暗に示しているというか。同語反復でなく「生きているのは生きているから生きているというだけなのだ」と的な状態なのがなんとなく分かるというか。あるいは生きている事が終わり、保たれていた構造が崩れて散り散りになる事を想像する時、昏い穴に、自己が消失/消滅しつつ吸い込まれていくような感覚を覚える気がするというか※6。あるいは構造を保とうとする力を手放し/失い、(自己であった)構造を完全に(そして取り戻せない形で)消失していく感覚を覚える気がするというか。ちなみにこういうの関連でこの記事が非常に好き。

※6:これは昏い/暗いというよりも、光を受容して光と感じる機能構造も消え失せるだろうから、暗くなるというよりも光を奪われる、というような感覚なのかもしれない。その意味で、死なるものは、それまで感じていた/出来ていた全てを奪われるような感覚を伴うものなのかもしれない。その意味で、(生の)abilityを奪われる/無力になるような怖さがあるのかもしれない※7※8。まだやりたい事があるのに/生きてみたいのに、みたいなwまあ普通に、絶命するくらいの衝撃とか痛みは出来れば受けたくないなとは思うけどなw受ける時はしゃあないと思って受けるんでしょうがw

※7:それはしかし同時に、抗う行動をやめ、現象そのものになるという意味では、疎外の終りともいえるのかもとも思う。この辺はよく分からん。ちなみに生きたまま抗う行動やめた状態ってのも多少は起き得る印象も。例えば、ダムに水をとどめるのをやめ、ダムの水門を解放して水を流す様な。というか1つには【ちょいHな単語】のイメージなんですが※9(/ω\=)イヤンあとこれとか(抗うのをやめるってのとはちょい違うかな??疎外がないor少ない感じのが近いのかもっす)。燃え尽きたよおやっさんw

※8:ちなみに以前体調不良で冬の最中なのにだらだら冷や汗かいて、あーこれは死ぬかもなと思いながらそのまま気絶した時は、眼前ブラックアウトして、そのままばつっとスイッチが切れたような感じでオチましたwその時は「死ぬなら最後まで前向いて死んでやるこんちくしょー」と思いながら気絶したので俺偉い。まあ場所がトイレだったんで間抜けな感じなんですがw

※9:ちょいアブなそうな性癖で、死とエクスタシー、あるいはエロスとタナトス、あるいは(フロイト的な)生(性??)の欲動と死の欲動をある意味では同一視してる系なアレがある雰囲気(このオッサンとか好きそうな。。。)ですが、それってしかし、生命の疎外性とそれが解放される事とかのあれこれを想定すると、割と理に??適ってる(というのも変な表現だが)って気もします(;・∀・)ある意味では生きものの根源的な欲求(というよりもおそらくは、生きものの根源的な構造から要請される欲求??あるいは俺解釈があってれば、フロイト的に言えば「退行の究極点であり生命発生以前の原初※10への回帰を目的とする」欲動を生じさせ得る生命の構造から要請される欲求)を、ある姿で満たそうとしているような??なので俺的にはそういうのに理解は示すし、感情的には分かるとこもある。色々アウト感もあるので、自分でやる気はないけどw※11

※10:「それは生死や存在非存在の区別もなく明示的言語で表現するのは困難なので『死』というメタファーでフロイトは命名した」ってのはこれに関するいい感じの示し方だと思います※12。

※11:というよりも、そういう行為って実は本質的ではないと思うので。俺からすれば、生きものの根源的な構造に自ら踏み込まずに、そこから来る要請に唯々諾々と従ったってだけな印象。それはざっくりいえば、本質(あるいは構造的な欲望)に踏み込んだのではなく、そこに流され従っただけだ。「神ではなく、神の力に仕えている」ってアレっす。そんなもん、本質に臨むって事を舐めんなって話だ。まあそんなカッコイイ事いっても、そんなん毎度出来るわけじゃ全くないですがねw馬鹿者で失敗ばっかの俺ですw

※12:死の欲動と生の欲動(説明はこれあるいはこれ読んでちょ)について我流解釈いえば以下のような感じっす。ただし俺はフロイトについてほぼ無知なんでよろしくっす(;・∀・)まずはじめに発生、展開しようとする生命の力や方向性がある(それがなぜあるのかは今は置いときますw)。これが生の欲動(フロイト的な精神分析解釈とは全然違うかもw)。ほいで、発生、展開しようとするのは大変でストレスがかかる事なので、生命はストレスを回避するために発生、展開以前(ストレスのない状態)に回帰しようとします。これが死の欲動。やりたい事(発生、展開)をやろうとしてる(生の欲動)けど、それってキツめでストレス多いからやめたくなる(死の欲動)けどやめたらそもそもやりたい事が終わっちゃうしイラっとするわー(攻撃性)って感じっす※13※14。テキトーでさーせんwでも一面ではあってるとこある気がするよ。しかし生命がやりたい事ってなんだろか。そこ考えていくと俺的にはいい事ありそうな(´∀`*)

※13:調べていったら「生の欲動はたえず緊張を伴い、これを解除することが私たちに快として感じられる」ってフロイト書いたって書いてあったっす。俺的にはこれ結構そうだろなって気がするんですが、じゃあそうなると、俺が追ってみたいと思うのは、そもそも生命はなぜ、緊張を伴い、解除する事が快と感じられるような事をやっているのか、やろうとしているのか、って事っすね。わざわざそんな事やるには、深い欲求/願望があるからじゃないかと。何やりたくて、何を願って、何を希求してそんな事してんのかと(`・ω・´)ゞ

※14:これの「死の本能とは、実は安定したい衝動である。と言い換えることができると思う」って分かりやすい。ほいで多分、生きているからこそ安定したい衝動を生起しえるんじゃないかと。生きものが生きる事が不安定な事に晒される事なので、そうではない安定/安心の状態にシフトしたい、という、極めて生きものらしい要請、生きようとするものだから起きる要請のような気がする。フロイトは死の欲動と生の欲動を対立させてるらしいけど、それって、フロイトの用語でいえば、実は生の欲動である自我保存本能の現われなのではないのか??※15

※15:フロイト用語でいう、生きものにリビドー(性の欲動)という展開への希求があり、同時(?)に自我保存本能という維持への要請があるとする。そして生きものが、展開のために行動してそこで疲弊し過ストレス的な状態になったなら、自己の維持や自己の安定のために、むしろ自己を破壊する方向になったとしても完全な安定を望んでいく、しかし自己を破壊するとそもそもの自己維持の要請に反する事になるのでそれはやらない。。。というプロセスは、ざっくり理屈でいけばあり得るかもとは思う※16。

※16:この流れのみで捉えた場合は、生きものは自己維持も種族維持もしないと生きていけない。しかし種族維持をやるためには(自己維持もそうだが)外界でストレスに晒される必要がある。ストレスに晒された状態の逆の安定状態になれば自己維持はかなうのでそれをやろうとする。しかしそれが完全な安定状態の死である場合は自己破壊になるのでやれない。結果として幾分ストレスのある状態をキープせざるを得ない。そのため(自己が生きている限りは実現されない)完全な安定≒死への憧れは消えない。。。みたいな感じなんすかね。理屈だけでいってるので、あとでちゃんと感覚的に通るか自分なりに追ってみるけどさ。「自己」維持とか「種族」維持だけのために生きものが生きてるような気もしないし※17※19。

※17:きわめて雑にいえば、1つには、植物が光を求めるように、自己自身の展開を求めてるような気もしなくもないけどね。種子が発芽して生長しながら姿を変えていくようにっつうか。ある意味では既存環境(いえば与えられた枠組み)への完全適応ではなく、その枠組みの中で、あるいはその枠組みを超えようと、より自由な姿であろうとしてるというか。自らの可能性の全てを発現させようとしてるというか※18。この辺もテキトーなのであとでちゃんと追います(´∀`*)

※18:可能性の束に戻る格好で、可能性を発現させる事を想像する、という意味では、死への憧れにつながるのかもしれない。あと可能性の発現の完全状態??≒進化の頂点??を目指すと見た目が悪魔っぽくなる話がコブラにあって、なんかちょっとそれ想像したwこの辺もあとで(ry

※19:調べもの続けててこの記事当たったっす。いってる単語分かんないから分かんないとこあるし、あってるかは分からんけど「無意識が反復するのではなく、反復するものが無意識なのだ」て洞察は天才的なんじゃないすかね※20。これにある「生とはそもそも死の節約であり、環境の直接性を身体組織によって遅らせることで生は自己を保つことができる。しかしながらそこで生み出される遅れはつねに一つの経済(?conomie)である。生は環境を遮断するのではなく遅らせるだけであり、その遅れを通して環境へと自己を開きそこからエネルギーを受け入れることによってはじめて存続していくことができる。そこに見られるのはつねに、閉じているか開いているかという二者択一ではなく、遅れを通して「閉じつつ開かれる」というひとつ経済である」てのもすげえ。ほんとにすげえ。まじで天才かwてか元っぽいスティグレールって何者ww

※20:上の記事に出て来た後生発生とか系統発生とか、ふわっとしか知ってなかったんで調べてみたけど、生物の話ほんとおもしれーなって思う。まあ俺の場合は生物が好きとかじゃなく(別に嫌いでもないが。あ、植物は好きw)、自分が日ごろ感じてる事がどう成り立ってるのかに興味があるからでしょうな。

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