2017年5月13日 - 80

メモ:心的なものについて、構造について その1

あるものを見る時、それは、無数の角度から見ても、それとしてあるように見える。ここには構造がある。俺らはその構造を見て「これはそれだ」といっている。

ところでその構造は一定ではない。ものがその姿を崩すとき、その構造は立ち消える。そこにあったものは失われる。構造はあるのか。というよりも、ものはあるのか。あるのは感覚入力だけで、その感覚入力を総合する時に、そこに射影的に見出されるのがものの姿だ。それは感覚入力の総合であり、同時に、無数の感覚入力がそこには折り畳まれている。その意味で立体的である。あるいは折り畳みによって情報が立体的になっている。

この立体に透けてみえるものが、あるいはその立体の構造に透けて見えるものが、ものの本質のように感じられる構造だといっていい。それは感覚入力を折り畳んで出来た構造、をさらに総合したもの/さらに透過的に総合したものの姿形を取っている。

そこには機能が見出され得る。このような感覚入力をもたらすものの奥底にはどのような機能があるのだろうか、という事を感じられるような機能。あるいは感覚入力という出力やレスポンスを行う関数の姿。あるいはその関数のさらに奥に見出される関数の姿※1。おそらくだが、俺らはその奥の奥に見出される関数の姿を心といっている。あるいは生命感だとか、死の感じだとか。

※1:ここに書いた事は構造がどうこうの話を除けば、俺らは物事を関数※2として見ている、といっている。もちろんそれだけじゃない。なぜなら俺らもまた固定的なもの、固定的な観測者ではなく、生理的な幻想としての姿を持ったものだからだ。もち深いレベルで自己をそのようには捉えているかは分からないが。

※2:ところで個人的には関数って言い方じゃない方がいいんですが、何かないすかね(;・∀・)


ある感覚入力を返したり出力する事象がなくなった時、そこに関数が無くなった時、そこにあった関数が変わったと感じられた時、俺らはそこにあったものが失われたと感じる。

ではそこにはものはあったのか。そこにはものは無かった。そこには感覚入力を返す関数があり、ものは、その関数のレスポンスを情報として総合したもののうちに現れた構造であり、感覚入力の束であり、一種の幻影だった。そこにはものは無かったし、おそらくどこにも無かったのだ。

そこには幻想がある。つまり関数的にレスポンスや出力を行う何か、そして、その関数的なものはいつまで続くかは分からない。そのレスポンスや出力は、今すぐに終わってしまうかもしれないし、ずっと続くかもしれない。

この投稿を書いている俺の目の前にはPCがあるが、PCは無いのだ。それは無数の出力やレスポンスを行う関数の束であり、その束に対して、社会的にPCという名が呼ばれているのであって、本来的なPCなるものが俺の目の前にあるわけではないのだ。


そしておそらく、俺らは俺らという身体、という生理的な幻想、という関数の束、が、出力やレスポンスを返し続ける限りにおいて俺らなのであって、しかしその関数が終わるとき、そこにおそらく俺らはいないのだ。


あるいは、俺が動くたびに付きまとう関数の束が俺なのであって、しかし、その関数の出力やレスポンスの束を感じている領域、こそが、俺なのかもしれない。少なくとも俺の(いわゆる)意識なのかもしれない。

「意識は常に何かについての意識である」みたいな言い方があるように、意識があるとしたら、もしそれが出力やレスポンスを受け取る「入力」や「処理」の機能だと捉えたなら、そこには「意識を意識する意識」はあり得ない。もし意識が入力と処理のみで出力を行わないのなら、出力を行わないものを入力や処理する事は出来ない。その意味で、俺らは俺らの意識の姿を知らない。ただ周囲の(いわゆる身体の)関数を感じるように、というだけでなく、もっと深い領域の関数を、あるいは機能を、あるいは動きを、感じる事がある。それはとりあえず心的なものだとしておく。


ところで、今まで経験した事のなかった心の動きを経験するように、関数は、おそらく、これで全てだ、とは確定出来ない。まだ現れた事の無い出力、レスポンスを返す関数が、そこに立ち現れるかもしれない。というか、おそらく経験した事のなかった心の動きとは出力やレスポンスという事であり、関数とは、そこから透過的に感じられる心なるものの姿の取り方なのかもしれない。


経験的には、俺は、俺がどう感じるかによって、そこがどういう場所かを知る。そこでは、その場所の出力を感じた事、からの類推が働いている。俺にこのような出力/レスポンスを行わせた、その場所の出力/レスポンスの奥にある関数はどのような姿なのだろうか、という事だ。

ところで類推はそれだけではおそらく不十分で、その場所の奥にある関数がこれこれである、という話と、そこからの出力/レスポンスを受けてリアクションを行う俺なるものの奥にある関数がいかなるものか、という話がいるのかもしれない※3。

※3:それはしかし不要かもしれない。それを捉えようとしてしまうのは、私はどのように世界を感じているか、という事を、そこに当事者として立たずに、外から眺めるような事かもしれない。

そのような、無数の出力/レスポンスを感じる領域があるとして、仮にそれを意識というとしたら、それ以外の部分。つまり意識ではない領域の俺であったり、俺を取り囲む場所というのは、おそらくは関数と捉えられるものであり、その意味で、いつ崩れてもおかしくないものなのだ。それは本当に関数があるというわけではない。そのような出力/レスポンスを行う何等かの機構があるのではないか、という類推から透過的に見えるものとして、それが実際にあるかないかは置いておいたとしても、仮にあるとするなら。。。という話のものだ。


話が逸脱するのかもしれないが、ところで俺らは何とコミュニケーションをするのか。表面的な現象ではなく、その奥の奥に見出される関数の姿とではないのか。それは例えば人格と呼ばれるのかもしれないし、その人と呼ばれるのかもしれない。あるいは人間でないもの、例えばいわゆる動物や植物だとしても、そのものらしさ、そのものの生命感、良さも醜さも含めたあり方、そういった無数の動きの奥に透過的に見えるものの姿とコミュニケーションをしているのではないのか、あるいはそのようなものの姿とのコミュニケーションを試みようとしているのではないのか。

もちろんそこに、こちら側が想定した関数はないのかもしれない。それはしかし、そこにある関数が、その関数があるようにあるかもしれない、という不確かな推測から働きかけを行うものではないのか。

もちろんそこには疑いや不安があるかもしれない。しかしそれは極めて自然な事なのではないのか。1つの見方から行けば、そのような振る舞いをする世界のうちで、確証を得られているように振る舞う事の方が、むしろ不自然なのではないのか。言い換えれば妥当性を欠いているのではないのか。


重要な事は「大きなコンテクスト」を感じる事なんだろうか※4。俺は個人的にはそうは思わない。別にそれが小さくても構わない。そうではなく、しかし、表面的な感覚入力、事象、だけでなく、その奥にある物事の姿に触れたいとは思う。

ふわっとしたいい方になるが、無数の音、空間的なひびき、無数の視覚の色、奥行き、線、匂い、空気の圧、重さや触覚的な圧、等々が、そこがどういう場所かを俺に告げる。そしてそれがそう行われる時に、そこの関数/姿が、よりはっきりと感じられるような気がする時がある。これがどういう時なのかは俺にはまだ上手くいえない。

※4:大きなコンテクストとか書くと宇宙とか愛とかアレとかコレとか出て来そうな気もするけど、個人的な話でいえば、俺はいわゆるスピリチュアルな人達は好きではないす。重要なとこの思考を放棄しているような感があるので。


ところでそこに、消滅可能性の感じられない構造/関数というのはあり得るのだろうか。


ところで現象が感覚の入力として与えられるなら、そこには何か確定した「もの」はない。感覚の入力を総合したところに浮き彫りになる姿が、その現象が構造/関数/意味/もの、として現れた姿であって、それは確たる何かではおそらくはない。

言い換えれば、はじめに静的な何かがあり、そこを基いとして動的な世界が構築されるのではなく、はじめに動的な感覚入力の系があり、その系から関数を読み取った時、そしてその関数がある姿に分割される時、そこに静的なものが立ち現れているのではないのか。

繰り返しいうが、そこには関数はあるかどうかはおそらくは分からない。あると思われるのは、起きたと思われる感覚入力の系の全体であって、そこから類推される、そのような入力を起こすであろう機能を想像した時に、そこに構造/関数が現れている、という話だ。

ここから無判断な推測を行った場合、いってみれば、はじめにあるのはダイナミズムであり、それが分割して無数の静的なもの、動的なものが生成される。そしてまた関数への類推そのものや、関数への類推の体系が崩れるとき、そこにあったものはダイナミズムに還るのだ。もちこれは無判断な推測ベースの話しだから実際そうかは俺にはよく分からない。

ただあくまでもこの無判断な推測ベースで話をした場合、例えば、人は死ぬと塵に還るのではなく、感覚入力が死に、意識が死に、そこで行われていた/与えられていたダイナミズムが減衰して、ダイナミズム以前へ還るのだ。そこでは「人は死ぬと塵に還る」という類推も滅びているし、もちろん「人は死ぬとダイナミズムやダイナミズム以前に還る」という類推も滅びている。そのような状態に還るのだ。

逆にいえば、俺らはおそらくそのようなところから来たのだ。飛躍をしていうなら、俺らはそこから来たのであって、けして原子や分子などの「ダイナミズムが分割された後に、(おそらくは基いである動的なものを見失って構想された)静的なものを基いとして解釈された世界の要素」から来たのではないのだ(繰り返すけどこれは無判断な推測ベースな話なんで実際そんな感じかは分かんないっす)。


名付けられるものは初めは動詞なのだ。〇〇がありそれは××する、ではなく、××するものが〇〇なのだ、という話なのだ。


現象のレベルの話をするなら、俺らは、姿の定まっていない世界のうちにいて、現れる現象との相関関係の切り結ばれのうちに世界の姿を認識において一時的に留めている。そうでない時はおそらく相関関係は、あるいは世界は流動的なものだ。そこに無数の幻想も生起する。そのような流動性のうちに起動し、また流動性のうちに幻想を見出し、また無数のものと関係性を切り結び、また流動性に還るのが俺らのある姿なのではないのか。

そこに静的なものは一時的にしかいない/留まらない。それは認識の切れ端のようなものであって、それが起きた流動性のうちに生起したごく小さな切り結び程度なのではないのか。程度とかいうのはいい言い方じゃないが、何を言いたいかというと、そこには、静的なものよりも、もっと大きな、そして静的なものもそこから生起した流れ/ダイナミズム※5があるのではないのか。

意識もいえば、そこに生じ、周囲の流れのうちに現れる現象との相関関係を切り結ぶ、主体的/創発的で自己フィードバック的なところのある領域/現象なのではないのか。

※5:あんま限定的ないい方したくないが、流れとかだとあまりにもふわっとしているので、例えばいうとしたら、感覚入力を引き起こす生理的現象の束、あるいは物理的現象の束。もちそれは俺ら(現象を浴びるもの)にとってみれば、生理とか物理とかが分かれる前の事象なんだろうから、このいい方は上手くないけどな(;・∀・)


非常にざっくり言うなら、現象から想像される関数に対して、働きかけてみて、そこに想像通りのレスポンスが無かった場合、そこにはその関数はなかったのかもしれない、という事になる。例えば人の姿に見える物体に対して人かと思って振り返った時。


ところで人は滅びるし物事は塵になる。その意味で分解というのは(おそらく否応なく)起きていく。しかしそうして出来た要素(原子でも分子でもそれより細かいものでもいいんだが)で世界が説明できるとすると、(流動的で、おそらくは有機的な事物のつながりの中で)一時的にでも姿形を取り存在するもの/統一体/幻想、への感情、感覚、というのの(暗黙の)否定につながってしまわないのだろうか※6。生きた様態※7を大事に出来なくなるっつうかさ。

※6:あるいはその意味では、事物を分解したら塵になる、ではなく、流動的なつながりのうちの有機的な意味をなさない関数になる、って捉え方のがまだマシなのかもしれない。まあこれはこれで一面的な感もあるけどな。

※7:こういういい方したけどこれをマジックワードにする気はないっす。ちゃんと掘り下げます(´∀`*)

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