2017年7月7日 - 80
喪について
喪について、フロイトは「悲哀の仕事」って名付けたらしいけど、俺としてはそれって大事だと思う。悲しみみたいなネガティブな感情を感じる事も大事っつうか。
仮に心なるものがあり、その動きとしての情動や感情なるものがあるとして、情動や感情にはポジティブ/ネガティブなものしかないとするなら、ネガティブな感情/情動を経験しない事は、自らの感情のうち半分を否定し、手放す事のように俺には思える。
それは自らの心の深い部分に至る道の半分を閉ざしている、という事ではないのか。あるいはまたそれにより、自らの心の深い部分の動きを、自分自身から遠ざけ、感じられなくしてしまう事ではないのか※1※2。あるいはまた、そのような事が起きる生きるものや世界の姿を否定し、封殺する事ではないのか※3。
※1:同様に、ある感情が社会的にどう評価されているものであれ、自らにそういった感情が生じた時、それを否定し封殺する事は俺はしたくはない。もちその感情通りに動くかどうかとは別だけどな。あー俺こういう事も思ったり感じたりするんだなーって思えばいいっつうか。それちゃんとやるって結構ハードなんですがねw
※2:絵とか音楽とかゲームとか何でもいいんだけど、自分がしっかり感じたい情動や感情をしっかり感じさせてくれるものには、俺は救われるなーって思う。世界がポジティブでハッピーで明るい音楽だけになったら俺は多分死ねるっす(;・∀・)
※3:個人的には封殺するより向き合った方がいいと思ってる。これもちゃんとやるの結構ハードなんだけどさw
自分の戦いを戦うってのは結構大事な事だ。他の誰かの戦いを戦わざるを得ない時もあるけどねーw
非常にざっくりいって、意味(目的)と存在とは別である
比喩的にいうなら、昼は意味の世界のようだ。夜は存在の世界のようだ
進化があるとしたら、それは存在の、世界への投企の結果であって、何らかの前提に基づく推測からではない
生きたものにあるのは、目的ではなく、要請や願望だけなのかもしんない。この辺よく分からんけどな(/ω\)
世界はゲームではない(←これこの頃すげー好きw)
だから奥行きも、分からなさも、願望もあり得るのだ、多分ねーw
コミュニケーションはある意味では到達(あるいは手応え)への願望とその試みであって、(機械的な)(言語的or非言語的)コードの取り交わしではない。
ただ俺のざっくり推測では、そこ(コミュニケーションの場)にあるのは対象aではない。「そこ」に「それ」はあるのだ。だから「(働きかけられるとこまでは)働きかけられ」るのだ。これは抽象的な話だ。ただ「それ」に到達可能な事はあり得るのではないか、と俺は予感している※4※5。
※4:すげーざっくりいうなら、それはいえば、追い求める事ではなく、関わろうとする事によって、到達し得る事もあるのではないか、って感じだ。追い求める事によって到達しようと思ったら到達しないっつうかさ※6※7。
※5:まあぶっちゃけ対象aについては、対象aという考え方があってるかどうかって事を含めて良く分かってねっすwてことを前提に、上で書いたことは、記号的な方法、ゲーム的な方法では対象aとして現れたり見えてしまうものに対して、アプローチやこちらのスタンスを変えるって事かもと思います※8。
※6:でも追い求めなくちゃ到達できないとも思う。わけわかんねー事いってるって感じだが、自分でもよく分かってないのでいい加減な事いうなら、追い求める事と関わろうとする事が交わるところで、到達可能性に当たり得るのかもねって感じだ。到達を願って追い求めるとこがおよそなく、ただ関わってるだけのものに本当に深いコミュニケーションが出来る、とは俺にはそれ程は思えない。個人的なバイアスが掛かった見方かもだし、なんだかんだでふと深く事物を感じるのはあると思うけどねっ(/ω\)
※7:「単なるポーズで終わるのではなく、心構えもできていることが重要」とかって、表現全然違うけど、割とこういう系統の話しかもと思うっす(`・ω・´)ゞ
※8:あとなんか、対象aを追い求めるだけなのって幼い気がする。自分の欲求だけで相手不在というか。
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