2017年8月6日 - 80

ベイトソン読み返し(精神と自然) その1

精神と自然をゲットして読み始めました。以前読んだ時に思った疑問や違和感は同様に感じるけど、思索の射程や世界の出来事への捉え方はやっぱめっちゃいいっす。ちなみに上記の疑問や違和感には自分なりに答えられるようになってる感があるので、自分なりに考えを重ねて来た手応えも感じてます。メモ的に感想書いてきますが。まだ読み始めたばっかなので少しずつ書いていくと思います。

■「Ⅰ.イントロダクション」について

〇ベイトソンはクレアトゥーラ(生ある世界)について、区切りと差異をその特徴として持ち出しているが、これのみなら俺としてはクレアトゥーラを語るに誤りだと思う。プレローマ(生なき世界)の対比として持ち出すにしても、やはりそれだけでは語り切れないものが無数に生じる。イントロダクションにおいてベイトソンは名詞と動詞のバカバカしさについて語っているが、そしてもちろん名詞と動詞はバカバカしいものだが、なぜ名詞と動詞という姿で言語があり得るのか、という事に対して、ベイトソンのクレアトゥーラの説明は応えきれるものではない。具体的には、生ある世界には、差異や区切りだけはなく同一性もある、という事だ。生ある世界にとっての同一性とは何か、という問いに応える事も射程に入れなくては、語るための言葉足らずになってしまう※1※2※3。

※1:もし世界に差異しかないのなら、全てはぐちゃぐちゃの混沌になってしまう。そこにはAはAでありBはBである、ような(同一性的な)認識は生じえない。その意味で意識も生じえない。あるいは生体という「一つの現象に見える、無数の現象の塊」も生じえない。

※2:今の俺の踏み込みからすれば「現象とは、とどまる事のない流転のプロセスでありながら、俺らの認識のような『動的な構成系』にとっては、それと同時に同一性の根源でもある」と捉えられると感じている。これは現象の姿があまりにも急激に変わったりしないからかなとは思うし、ある意味では、その速度に合わせた世界に俺らの認識は住まってるのだと思える。認識にとって現象が流転し、砕けて変わる速度がそれ程速くないから、というか。そして/しかし、俺らはある現象を「それそのもの」として同一であると捉えている。目の前の水は流れているにも関わらず水である。だが、現象が生成流転するならば、そこにある同一性はただの幻想とも言えると思う(ついでにいうと俺らの認識自体も緩やかに姿を変える生理的/認識論的な幻想みたいなものかもなと思うが)。いってみれば、同一性が作り替えられ続けられる「認識の縁」が多分現象と認識とのあいだにあるのだ。そして現象のダイナミックな姿を受け入れるという事は、ひとつには、「同一性が担保されている」という認識を捨てて、その縁に臨む事なのだと思う。

※3:重要なのは、AはAであると同時に、AはAでないものに姿を変え続けている、という事だ。俺らの認識は、AがAでないものに姿を変え続けている世界にいながら、AをAだと認識し続けようとしている。そこでは「同一性は作られ続けて」いる。しかし例えば夕暮れ(A)が深い夕暮れ(A’)から闇(B)に変わり切った時に、俺らが「夕方が終わり夜が来た」と世界への認識を変える様に、物事は流動性と同一性を同時に(というかおそらくは異なるレイヤーで)帯び続けている。いえば流動性は事物のレイヤーで動作し、同一性は認識のレイヤーで動作している。しかし/そして、この様な2つの(あるいはもっと多くの)レイヤーの動作は、生体においてはゆるやかに、あるいは深くつながったものとなるのではないか、と感じる。

〇ベイトソンはパターンの生成について触れているが、破壊についてはあまり触れていないように感じる。シヴァの舞踏についてわずかに触れているが、そこでのベイトソンの見方、感じ方は俯瞰的で、生成と破壊の現場に居合わせた者の見方、感じ方ではない様に感じる。その意味で、彼は「システムの外部」からシステムを語ろうとしているところがある様に感じる。その意味で生命あるいは生体への語り方も、どこか観察者的/傍観者的に感じられるところがある。その目にはパターンは映っても、生の一回性などは映らない様にも感じられる※4。

※4:例えば生命あるいは生体についていうなら、今の俺としては、(外界などに対して)遅延※5され、不可逆的なところがあり、可変的で、同じ様なパターンを繰り返し編み続ける、幻想の様な現象、みたいな感じになる。俺だったらだが、パターンよりも、パターンを編み続けようとする動きを追いたい。その方が生きたものにとって本質的である様に俺には感じられる。ベイトソンからすればそこにはパターンが予めあるみたいな話になるのかもしれないが、俺としてはそうではなく、その都度編む事が試みられる事の様に感じられる。その意味で、世界はすでに完成品として美しいのではなく、美と醜を絡めながら、その都度出来上がっていくものとして豊かさを示し得るものではないかっつう気もする。俺からすれば、ベイトソンはこれが予めすでに出来ている、ように語っているような印象を受ける。

※5:「生とはそもそも死の節約であり、環境の直接性を身体組織によって遅らせることで生は自己を保つことができる。しかしながらそこで生み出される遅れはつねに一つの経済(?conomie)である。生は環境を遮断するのではなく遅らせるだけであり、その遅れを通して環境へと自己を開きそこからエネルギーを受け入れることによってはじめて存続していくことができる。そこに見られるのはつねに、閉じているか開いているかという二者択一ではなく、遅れを通して「閉じつつ開かれる」というひとつ経済である」というような遅延

〇この記述は本質的なところがあると思うが、同時に1点の疑問を俺は感じる。

「われわれを造りあげている素材は、完全に透明で知覚不能のものであり、その透明な母体(マトリクス)に生じた裂け目や断面としてしか認識できないようなものではないだろうか。(中略)プロティノスの『万物を満たす不可視にして不変の美』とは、ひょっとしてこのマトリクスを指して言った言葉なのではないだろうか。このマトリクスがその部分部分を、さまざまなAとさまざまなBを結び合わせていく物語が語られるとしたら、それはどんな物語になるのだろう。そしてまた、部分部分がこのように結びあわされているということこそが、生きているということの一番の根幹をなしていると考えていいのだろうかどうだろうか」

俺が感じる疑問とは、ここで述べられている「美」なるものが「不変」と語られている事だ。俺としてはだが「真にオープンなシステムはオープンだけでなくクローズドなものを含むのではないか」と感じるところがある。同様に、かどうかは分からないが、その美なるものも、美と醜を含むから、あるいは変化と不変とを含むから美として成立する、というところがあるのではないのか??そしてこのチャプターでは進化についてはほぼ語られていないが、システムがシステム自身を破壊しながら創造していく、という事が進化であり、そのうちに美があるのだとしたら、それを(その破壊と創造のダイナミズムとトライアルを無視して)「不変」とあっさりと語るのは違うのではないのか。それは上記したように、観察者/傍観者の視点であり、あるいはそこで美なるものがその都度生まれる試みのうちに動的に生じるのではなく、あらかじめ静的に出来ていた、というような捉え方ではないのか。あるいは生きた世界に対してコミュニケーティブである、とは形容し難い捉え方ではないのか。その捉え方で果たしてベイトソンのいうところの「ステップス」は踏めるのだろうか??踏めないのではないのか。


かいてみて思ったけど、俺は生きた系を、遅延された同一性と、流動という同一性の崩れ/変化(あるいは同一だったものとの差異の生成)のシステムとして捉えてるとこがあるのかもと感じた。そしてこのレイヤーの差異とは別に、ある同一性Aと、別の同一性Bのうちに差異はある、みたいな感じなのかもしれない。ベイトソンと同じように、俺もやっぱ系を貫くパターンがあるのではないかとは思う事はある。ただベイトソンと違うのは、そのパターンは静的ではなく色んな意味で動的ではないかと感じてるとこかなーと。


上に書いた書き方と紐付けてかくと、ネガティブな感情を否定する事は、それを生じたところのもの(例えば心といわれるもの)を否定する事だ。それでは何かの解決にはならない。重要なのは生じたところのものの動きを受け入れる事ではないのか。真にポジティブなものは、ポジティブとネガティブを含み得るのではないのか、あるいは真に肯定的なものは、肯定と否定を含み得るのではないのか。

あるいは、例えば愛憎というもの、正邪というものなどは、2つの相反するものではなく、1つの生きたシステムの異なる顕われなのではないのか??上記のような言い方を踏襲するなら、真に愛なるものは愛と憎の双方になり得るのではないのか、あるいは真に正なるものは正と邪の双方になり得るのではないのか。


意識(あるいは無意識の様なものも含めた広義の意識の系)が「抽象化(あるいは仮想化)された(ことにより統合的にあるいは連結的に自己(あるいは自己の広がりや顕われ)を把握したり扱ったり出来るような姿になった)広義の身体※7」って事はあるんすかね※8。それは合ってるかは分からないが、仮にそう捉えるなら少なくともアタマの中のホムンクルスは出て来なくて良くなる(意識にレイヤーの様な姿があるにしても)。

※7:広義の身体とかいたが、そこにはもしかしたら、例えば住環境、昨日食べたもの、着ている衣服、大気の温度や湿度や気圧、いる場所の匂い、他の誰かとの関係性、今日起きた事、昔作った傷、といったものも含まれるのかもしれない。

※8:もしそのようであるなら、そこにはおそらく「ウロボロスの胴体」も生じてくるのではないかとも思う。つまりそこ(広義の身体のうち)で「意識を発生させている部分」は、おそらく意識し得ない/意識にとって感知し得ない。それは眼球の裏側が、眼球にとって見えない部分であるのと、ある意味では同じような話だ。ウロボロスは自分の尻尾は噛めても、自分の胴体(例えば頭の付け根である首)は噛めない、ような話だ※9。

※9:もしウロボロスが自分自身の首がどうなっているのかを知りたいのなら、尻尾を噛むのをやめて、頭を引っ込めてみて首の感触を感じようとする必要があると俺は思う。おそらくだが、意識の構成を知るのはその様な方法になるのではないかと思う。脳科学の様に頭を引っ込めずにひたすら尻尾を噛んでいても、首の事はおそらく分かるようにはならない。それはもしかしたら「外から(観察者/傍観者として)見た(自分以外の誰かの)首の様子」は分かるようになるのかもしれない(って一応は書いたけど俺は直感的にそうも思えない。「脳科学的な現象」と「意識の系における意味」との関連性が取れない限りまあダメだろうなという印象だ。そして意識の系における意味を脳科学的に担保/説明する方法が、馬鹿げた同語反復的な説明以外にあるとは俺には思えない)。しかし「自分にとっての(自分の)首の姿(の認識)」はおそらく分からない。そして重要なのは後者だと俺は思う。なぜなら俺らの認識は、科学などによって担保や裏打ちされているのではなく、認識それ自体によってあるだけなのだから。あるいは俺らにとって本当のところは、科学よりも認識が先行しているのだから。生きた世界の認識があるからそこに築かれる世界観として科学があるのであって、世界観としての科学があるから認識があるのではないのだから。科学などあろうがなかろうが俺らは生きた世界を認識出来るのだから※10。

※10:しかし認識において本当に対比すべきは、科学と認識などではなく、同一性と流動性ではないかって印象だ。そこでは例えば同一性的な見方の系(例えば科学の様にリジッドな)があるから世界は認識できているのであって、流動性的な見方の崩れ(揺れ動く認識、あるいはその枠の外)は、見方/認識の系の安定の阻害要因にしかならない様に感じられるのかもしれない。しかしおそらくは、認識における同一性の発現は、世界を構成する骨材にもなり得ると同時に、世界の動きをせき止める骨材にもなり得てしまうものなのだ。俺らの認識は、雑に言うなら、同一性と流動性のはざまにあるのであって、だからこそ動き続ける世界を程よい程度の流動性/同一性で、認識(あるいは断続的/連続的な再認識)出来るのではないかって印象もある。あるいは同一性的な見方だけでは世界は止まって死んでしまうし、流動性的な見方だけでは世界は崩れてわけがわからなくなってしまう※11。

※11:俺にはよく分かってないのでなんとなくだが、同一性的な見方と流動性的な見方が起きているレイヤーは一部異なるのかもしれない。いえば同一性は意味のレイヤーで生じ、流動性は現象のレイヤーで起きている、というところもあるって事だ。ただゴチャゴチャするのが、おそらく意味のレイヤーでも断続的(デジタル)に流動的な変化は起きる事が多くあるだろうという事だ。また現象のレイヤーで流動的な出来事が起きていない場合(同一的である場合)は、そこは変化なし(差異なし)という状態という事になるのかもしれない。この辺りはまだよく分からない※12。

※12:例えば現象のレイヤーで生じたことは知覚され、意味として一見統合される。そして現象のレイヤーで生じ知覚されることが、その一見統合的な像をかき乱したり壊さない限り、意味の像の同一性は姿を変えずにいる。しかし現象のレイヤーで生じ知覚されることが、その像をかき乱したり壊したりする場合、意味のレイヤーの像の姿や像同士の繋がり方は姿を変える事を余儀なくされる事もある。ところで「一見統合的な」というのは、例えば俺はつねにある現象の全ての面を、それに起きている全てを知覚出来るわけではないからだ。俺にはその現象の背面はつねに見えない。あるいは開示されていない内部はつねに見えない。意味は知覚された現象から構成される一見統合的な推測の束であって、現象そのものではおそらくはない。俺らが世界の現象の構成を見出そうとしているとき、それはおそらく推測だらけだ。そしてその推測は動的に変わりゆくような推測だ※13。

※13:そして俺らはその推測のうちに、あるいはその情報ベクトルが集約される地点に、(もしかしたらある種の幻想として)ものごとの姿を見て取ろうとしたリ/見て取ったりする。しかしその幻想、そのベクトルの積は、ある意味ではその場その時には存在し得るのではないか、つまり動的な瞬間瞬間には存在し得るのではないか、と俺は思う事がある。「一回性」という事でいえば、その積は情報ベクトルの状態が変わってしまえばもう現れないのかもしれないが※14。

※14:そしてそのように一回性的でありながら、事物を繰り返していくうちに、繰り返し似た姿として現れる/現れようと試みられる現象のありようというのが生きた世界にあるのかもしれない。そしてざっくりいえば、それが極めて広義の生命現象ということなのかもしれない※15。

※15:そういうものがあるとして、俺が重要だと思うのは、それらを観察者的に/傍観者的に語る事ではなく、それらのうちを歩んでいったり(極めて広義の)コミュニケートをしようとしたりする事だ。1つには、そういううちに自らの、そして関係性のロジカルタイプの踏み上がりや踏み下がりはあるのではないかと思う。雑な推測をすれば、俺らはそれに一喜一憂する愚かな生きものに過ぎない。そしてその愚かさはおそらく非常に素晴らしい事だ。もちろん生きた世界で起こる事はそれだけではないのだろうが※16。

※16:上記の「関係性のロジカルタイプの踏み上がりや踏み下がり」のような出来事の姿をパターンの編み上がりや編み下がりというのなら、それらはどちらもパターンの生成に分類される出来事といってもいいように思う。しかしそれだけではなく、俺らはパターンの破壊や断絶にもつねに晒されている。そのような生成と破壊の出来事のうちに物事は動いていくように俺には感じられる。そして生きたものは、その生成と破壊に臨み、それを様々なやり方で潜り抜けたり越えていこうとしつつ、滅んだり生きたりして、それによって、新たに生成と破壊を生じさせていくようなものなのかもしれない。この辺は広すぎて今の俺には分からないw

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