2017年8月12日 - 80

ベイトソン読み返し(精神と自然) その2

■「Ⅱ.誰もが学校で習う事」について

〇差異のないところに知覚は生じない、とあるが、これは本当だろうか??2つの意味で。まず1つ目に、例えば触覚や視覚(視覚は後でベイトソンも眼球振盪について触れている)では「ずっと触れている感覚」「ずっと見えている感覚」はないのだろうか。そして2つ目に、知覚が差異の知らせだとしても俺らは差異を受け取る基準としての自我のようなものを、一つの絶対点、原点、(ある程度曖昧な)ゼロ基準の様にしてそれを受け取っていたりはしないのだろうか??ベイトソンの話しからは、特に後者の絶対点、原点、(ある程度曖昧な)ゼロ基準としての自我の様なものの姿が見えてこない。このためベイトソンの話は、ある面では非常に捉えどころのないものになってしまっているように感じる。いえば彼は、差異についてはよく扱ったけれども、同一性についてはよく扱っていなかったのではないのか。しかし/そして差異と同一性について扱わなければ、例えば自我の様なもの、意識の様なもの、当事者というもの、というものの姿は現れてこないのではないのか??

〇脳の右半球は、地図と土地とを区別できない、とある(実際にベイトソンが言及しているのは国旗と国家)。ところでコミュニケーションとはある面ではそういうものだ。つまり代理人ではメッセージのケースは届けられても、メッセージは届けられない。メッセージを届けられるのは本人でしかない。メッセージが届いた時はじめて物事は動くのだと俺は思う。メッセージのケースでは物事は動かない。

ところでしかし、メッセージそのものとは何だろうか??(例えばシナプスへの化学物質??例えば優しい顔の女性が持つ魔女の影??俺が知りたいのはどちらかと言わずに、関係性ではなく直接性だ。だからこれを(関係性のネットワークの踏みあがり、踏み下がりなどを追った)ベイトソンの論に言うのはお門違いなとこはあるのだが、俺は直接性についての記述がない彼の論は非常に片手落ちな印象を持つ。

〇Ⅱは全体的に素晴らしいが、ストカスティックプロセスの話はめっちゃいい。トートロジーの話も「基本的には」素晴らしい。ただ後で多分書くが、ここでのトートロジーの芯があるとしたらそれは何なのだ??俺にはベイトソンがいうような、3+7が10になる、様なことではない気がする。そんなものが生きた世界の芯だとは俺には思えない。

〇情報伝達等の領域では、情報無きところに無から有は生じない、とあるが、でははじまりの情報なるものはどこから来たのだ??無からは有は生じないの情報版が妥当とするなら、生きた世界はどこからやってきたのだ??

〇Ⅱのどこで言及されている、という訳ではないが、ベイトソンの描く(広義の)宇宙は「破壊されない宇宙」の様だ。これは俺が「大きさ」を測り損ねてるだけかもしれないが、全てのものは破壊の危機があり、またそれを越えていこうとし、それを断続的に越える内(うち)に新しさを生じさせるものではないのだろうか??

〇主語と述語が馬鹿げているのは分かる。ただし/しかし、主語と述語の使い手は「物事のネットワークの総体のうちにマッピングされ焦点を当てられた『それ』(S)」が「どの様な情報ベクトルの積としてそこに存立しているのか(P)」という事を、主語(S)と述語(P)という関係を使って、簡略的に/節減的に示そうとしている、という面がそもそもあった、という事はあるような気もする。これは先述の同一性とも関係ある話だから、ちゃんと追わないと全く分からない。

〇とりあえず色々書いたけど、Ⅱの内容は極めて素晴らしいと俺は思う。踏み込みが素晴らしい。こうやって行こうとしたのかー、って感じだ。

〇地図と土地について、辺りの参考:シニフィエとシニフィアンとレフェラン


■雑多な書き止め断片(大幅にズッコけてるものもあると思う。特に後半)

メッセージは、そのケースではなく、本体が全てだ。言えばメタメッセージが全てだ。「その記述がしてあるメッセージが送られた」という情報から読み取れる全ての情報の積、が示すものが重要なのであって、メッセージの記述が重要なのではない。例えば優しい女性の影の形が魔女の影のような。

システムには以下の特性があり得る。「閉じる」「開く」「蓄積」「開放」、システムは自己を全て開放したら死ぬ。そのため常に何かを蓄積し、そのストレスを抱える事になる。しかしシステムはストレスを開放して無くしたがる。それが小死の経験への欲望や、代理者を殺す事への欲望につながるのではないのか※1。

※1:これについての正解のようなものがあるとしたら、ストレスから逃避するのではなく、そのストレスを生成せざるを得ない姿で動作している自らや、自らを囲む大きなシステムに対して、出来るだけ相対して踏み込む事ではないのか、という印象はある。もちろん一時的な逃避/逸脱は否定しないし、それはむしろ良い影響をもたらす場合が多いのではないかと思う。逃避に問題があるとすれば、相対するものへの姿勢から逸脱したまま、そこに戻ってこなくなる事だ。

水を満たした木の器に、その器より小さい水を満たした器を浮かべ、そこにさらに小さい水を満たした器を浮かべ。。。とする。そうすると、一番下の器にひびが入っても、一番上の器には大した影響はない。いわゆる身体と、いわゆる意識とは、こういう関係ではないのか。同じシステムとしてつながっているが、そのつながりが硬直的ではなく、極めて柔軟で自由度が高い。だから少しくらい身体にダメージがあっても、意識ははっきりしている。しかしあまりにも身体にダメージが入ると、それは一番上の器である意識にも波及し、器は浮かばなくなる、みたいな。まあ器ってのはいい例えじゃないんだが、なんか他に思い浮かばなかった(/ω\)※2

※2:精神なるものがどうかは分からないが、少なくとも身体も心も、(外界から、複雑かつ再帰に絡みつつ数層にわたって)遅延された構成物や発生物の様にも感じられる。ある意味ではビーカーの中の化学反応の様なものだ。それは外界からとりあえず区切られ、しかし緩やかにはつながりつつ、反応を起こしている。ところでもしそのビーカーに意識があれば、ビーカーはその化学反応を、今自らの内側で起きている事だと感じるのだろうか。

意識には、「真の身体」を見えざる原点として、身体による仮想的で統合的な「総合的な探知および操舵機(自己を含めて探知や操舵する)」ものとして発生した、みたいなところはあるんだろうか。そういう風に捉えるなら、心の一部は真の身体側にある生理的や科学的な反応の示す情報の束なのかもしれない。ところでもしこの様に捉えるなら、脳の中のホムンクルスは想定しなくてよくなる。あるいはこの様に想定した場合、いってみれば、俺ら自身が、脳を含めた真の身体が生み出した(意識という)ホムンクルス、という風にも捉えられるかもしれない。いずれにしろ、多重構造のホムンクルスを想定する必要はなくなる。ホムンクルスは一人でいい。そしてそれは例えば「俺の中」にいるのではない、いえば、意識としての俺自身が真の身体に対応したホムンクルスなのだ。そしておそらくだが、真の身体は、直接的には感知できない。こうして自分で触れたり生きたりしている身体は、いえば、意識というホムンクルスの触覚や視覚を通して(いえばフィルタを一枚かけて)認知されている身体なのだ。

意識を生じさせた領域を、おそらく意識は直接的には一切感知出来ない。感知のような事が出来るとしたら、おそらくだが、間接的に示される情報の束のベクトルによってだ。手掛りが全てこちらを向いているから、ってやつだ。

ところで一次情報があるとすれば、しかし、ホムンクルスにとっては、ホムンクルスのフィルタを通してやってきた情報が一次情報、という面が強くはならないのだろうか??あるいは「(直接的には感知できないものを含めた)何かを示す情報ベクトルの全て」が一次情報になるのだろうか。

ところでホムンクルス云々と書いてきたが、俺は俺であってホムンクルスではない。少なくともそのように認知して生きている、というところから出発しなければ、おそらく何もまともな事は想像出来やしない。

メモ / 日々


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