2017年8月12日 - 80

世界観@我流(途中版、というか一部版)

俺の世界観は、ベイトソンにある面では影響を受けたものではあるけれど、おそらく芯の部分ではベイトソン的ではない。ちょっと今ベイトソンは読み返しているとこなので、何が書いてあったのか今は忘れているのだけど(今はとりあえず「精神と自然」を一読したとこ)、今の俺にとっての世界というのはこういうものではないか、というのは一応ざっくりある。確証はないw

〇まず全体として、それは新しく生まれ変わっていくものだという事。

〇そして新しく生まれ変わるときには、断然/死/破壊、のただなかに自己(世界が自己ってのもヘンテコだが)を投げ込むものである事。これが部分的にのみ起きるのか、それとも全体に起きるのか、それは俺には分からない。ただ、旧い(ベイトソンのいう)トートロジーをいつまでも堅守しているのでは、その世界はいずれ死に絶えてしまう。新しさを吹き込むために、(ベイトソンのいう)トートロジーだろうが、世界の姿だろうが、その芯にあるものだろうが、などは、一度破壊をかいくぐらなければならない。それは「破壊的な状況を生き延びる」のではなく、それ自体が破壊され、新たに生じるか生じないか分からない、つまりそれで終わってしまうかもしれない、そのような事をかいくぐっていくのだと思う。そのような意味では、破壊をかいくぐるものは世界ではなく、可能性といった方がいいのかもしれない。

〇その様な可能性、あるいはその束、が世界の芯であって、数理的な出来事などではおそらくはない。諸々の誤解を恐れずにいうのなら、その様な可能性、あるいはその束は愛あるいは破壊と呼ばれるものだ※1。

※1:枠組みのサイズを少し変え、そしてこれとコミュニケーションと絡めていうのなら、芯が動作するには、少なくとも自分のうちに愛情がないとダメだ。不信感からは何も生まれない。なぜなら不信感とは関与の拒絶だからだ。あるものの実現、生成のために行動する、という事がある。これはおそらく、一つの重要な事だ。それはある意味では、(関与の拒絶による)システム自身の保持/防衛よりも重要な事を見出し、それのためのアクションが起きるという事だ。そこでは関与を拒絶するかどうかが基準になるのではなく、その実現や実行をするかどうかが基準になる。(ダイナミズムを)ドライブするとは、極めて雑にいえば、例えばそういうところがあるのかもしれない(そしてそこで動作する芯は、数理などではないだろうと俺は思う)。しかしもちろん不信感にも重要な役割がある。それは受け入れるべきではない関与およびそれによる変化を拒絶するという事だ。馬鹿げた変化の何もかもを受け入れていたらその系はあっという間に壊れてしまうだろう。その意味では、不信感と愛情のコンフリクト(あるいは保持の要請と関与/変化への要請のコンフリクト)もまた重要な事だ。

〇ところで俺にとっては、その様な事が起こる事(その様な事は大なり小なり、実はおそらく頻繁に起きているかもしれないのだが)を、出来るだけ強い強度、深い深度で、そして自分自身の事として、実行、実現する事が一つ重要な事となる(我流のいい方だが俺はそれを「(世界に)踏み込む」といったりしている)。俺はそれ起こし得る事を、我流のいい方だが「コミュニケーション」といっている。

〇俺らはコミュニケーションをして生きている。ある意味では、それ以外に重要なものなどないのだ。そしてそれはおそらく、自己だけ、自分だけでは起こせない。例えば世界が、あるいは例えばコミュニケーションの対象がなければ、それは起こせない、のではないかと俺は想像する。

〇コミュニケーションの対象は、しかし何だろうか。これについては俺はまだよく分からない。ただ「これ」と言える何かというよりも、今提示されている/今まで提示されてきた/これから提示されるであろう、情報の束のベクトルの積が示す地点であり、そのベクトルの積の示す属性なのではないか、というような印象もある。少なくともそれが多少なりとも関係する様な何かの姿、なのではないかな、とふわっと思っている(抽象的な話かもしれないが、しかし例えば、誰かから見た別の誰かの心/心の姿というものは、その様に推測/想像され得るようなものではないのか??そして俺らは誰かと話すとき、声を発し表情を動かすなどで聴覚や視覚情報として現れているその誰かと話すというだけでなく、発話内容や声のトーンや表情の動きから類推される無数の可能性、としてのその誰かの心、と話すようなところもあるのではないのか??)。

〇繰り返すが世界はゲームではない、だからこそ俺らの類推には、そのように、心なるものの想像が含まれたり、あるいは俺らはその心/人格などに対して働きかけるような試みをしようとするのではないのか??もしも世界が「ゲーム」として定義/規定されるのならば、その様な類推は一切不要になり得る。しかし世界はその様なものではおそらくはない。類推の先に想像され得る(可能性としての)地点、というのが、いわゆるコミュニケーションにとっては、極めて重要なのだ。

日々


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