2017年9月11日 - 80

メモ:科学の始まりについて、探究について

これは知り合いとのやりとりからほぼ抜粋してます(一部改変してます)。その人にはいつも俺の謎の発言を快く聞いてもらってます。迷惑かけてるかとも思っていますが、ありがたいです(/ω\)


1.

俺はシステム論や認識論を自称やってるつもり ですが、多分そういう事をやって奥行きを探っていきたいのは、1つはコミュニケーションについてなのだと思います(もちコミュニケーションについてだけ、っ て事は全然なく、例えば「ある核心」に到達したい、みたいな思いも強くあるんですが)。

俺は元々理系をやろうと思ってたんですが、やってみて、これなんかアカンと思ったのも、そういうのやる事で、世界がどんどん奥行きをなくして薄っぺらになる感じがあったからなんすね。あれ、これやっちゃったら俺が知りたい事から遠ざからない??みたいな。

ではそうではない「奥行きのある」世界が何かというと、ある意味ではエコロジカルな、ある意味ではコミュニケーティブな、ある意味では分からなさのある、ある意味ではシステミックな世界の現れであったり、世界と自分との関係性の可能性があり得る世界なのではと思います。

これは素朴なレベルでいえば、自然や物事へのごく素朴なへの敬意や畏怖、とかではないかと思います。世界や物事に「分からなさ」がちゃんとあったり、「分からなさ」に対してある種の敬意と畏怖を払えるとか、そんなイメージだったりします(その辺でいうと、俺は素朴なアニミズムはかなり好きですw)。

話は飛ぶよう ですが「他者」なるものも、そういった分からなさへの態度であったり、そこへの敬意や畏怖を失っては、極めて薄っぺらなものになると思います。そしてそうなればなるほど、分からない者に対しての対話的な態度が失われていって、世界がどんどんペラペラになってくような印象もあります。

なんか上手く言えないんですが、そういう風にせず、対話的で探求的で、かつ出来るだけ明晰であろうとし、かつ出来るだけ分からなさに対して開かれたような 認識論とかスタンスってのは、個人的にはそれなりに大事じゃないかなと思ったりします※1。それとまた一方に、生きていくために必要なものとして「世界を簡略的な図式で把握し、必要な時には迅速にアクションを起こしていく」ようなスタンスもいるようにも思いますが、まあ世の中見てるとどっちかだけになりがちな印象もあります(*`・ω・)ゞ

※1:この辺り「分からなさに対しては一応開いているけど明晰でいようとはしない人」ってのは一定数いる印象です。俺からすると明晰さの放棄は衝撃的です。それとまた、生きていくために必要なアクションを自分がどう起こしていこうとするのかを大して考えない人たちも一定数いる印象で、これもまた衝撃的です(;・∀・)

2.

他者関連の余談なんですが、科学万能!科学で人間丸分かり!みたいな(ある意味では教条的な)人に対して俺が尋ねてみたいのは「あなたが科学を知らない幼い頃も、世界は科学的認識で切り分けられるものだったのか?」「もしそれがイエスorノーというなら、それはなぜか?」って事だったりします(ついでにいえば、公理的なものから物事は成っているという人には「あなたが世界を経験したのもそのような形だったのですか」と尋ねてみたいと思います※5)。

※5:俺が思うのは、俺らが物事を経験して知っていく過程というのは、ある(正しいとされた)公理が展開していく様(さま)のようなのではなく、分からなさを少しずつ経験し、結びあわせ、その重なりの中に分かることを見出し、それを持ってなお分からなさの広がりへ進んでいくような過程ではないか、という事っす。

そうすると実は、科学的認識は、科学そのものによって成り立っているのではなく、自身の信念や、他者への信頼(あるいはそれらに加えて、認識の確実性や世界の確実性への信頼等)を介して成り立っている、という事が見えてくるようにも思うんすよね。科学が俺らの自身や世界の基底にあるのではなく、俺らの認識は科学の基底よりも下か、少なくとも同じ位の深度にいるのではないかっつうか。まあ荒っぽい質問&考えなんであんまよくないかもですが(;・∀・)

ただこの辺掘り下げてくと、「俺らの認識における同一性とは何か、差異とは何か」みたいな絶賛深い話になりそうな気はします。科学のレイヤーは俺らのレイヤーより上とか下とかっていう単純な話じゃなく。

これは比喩ですが、科学の萌芽は俺らの認識における同一性にあり、ある意味での非科学の萌芽は俺らの認識における差異にある、みたいな。認識そのものをどちらも根源としてるんじゃね?じゃあ認識ってなんだべ?的なかなり深めの話っす。

ただ、もしこの辺安易に考えていいなら、科学的認識(あるいは「分かったことにする」事、「同一性」を認める事※2)の起点or基盤は、本来「(ベイトソンのいう)予測できない数列」である生態学的環境に対する「認識のコスト」かもしれない、という気もします※3。俺らは世界を探求的にモデリングしていく過程で、本来的には予測不能の可能性のある環境を、しかし暫定的に予測可能なものと捉える事で、そこにかける認識コストをある時点でストップして、他の部分に回せる、みたいな。

まあそれを、暫定的じゃなく完全に予測可能って事にしちゃうと「(分からなさに対して)認識が閉じる」と思うし、それって少なくとも「探求的モデリング」の放棄ではとも思うし、拡張的な意味では(探求というう)コミュニケーションの放棄ではとも思うんですが。

※2:これは単なる「節減律の始まり」ではない気がするので、「科学的認識の始まり」って書き方しました。しかしオッカムの剃刀(節減律)のリンク先の記述見るとなんか絶賛胡散臭さが漂います。ものごとの「(あるはずの、それ故に排除してはならない)分からなさ」を排除しようとする感満載というか(`・ω・´)ゞ※4

※3:これと「速度」の問題もあるかもと思います。物事は移り変わっていく(という同一性の一切ないプロセスにある)けれど、それがあまりにも急峻であったりランダムであったりではないので、その中に同一性を見いだせる、という事です。ただこれは実は、俺らが、俺らが住んでいる世界の速度に合わせた形で認識を形成しているから、というとこもあるような気もします。よく分かんねえす(/ω\)

※4:ただしここは面白かったです。「ある測定データが与えられたとき、一般に、統計モデルを複雑にすればするほど、その測定データをうまく説明できる。しかし、そのようなモデルは、不必要に複雑なモデルであり、計算することが困難であるばかりでなく、過去のデータに過剰に適合してしまい、未来のデータを説明できなくなってしまう(過適合)。」

3.

ちなみに「探究的モデリング」についてなんですが、これはもしかしたら「探求」の方が、実は「モデリング」よりも重要なのかもな??という気もします。出来事をモデルに帰す事が重要なのではなく、出来事と出会う/遭遇する事自体が重要というか。この辺まだ全然わかってないんですが、いい感じに掘り下げていければ、「機能やモデルに帰せない/帰す意味のない(←これは言い過ぎかもですが)、コミュニケーション/経験/遭遇」みたいなものが出てくるかもという気もします。上記のは言い過ぎかもですが、ただこういう領域があることと、世界が(おそらく本質的には)魔術的であることは何らかの仕方で関連づいている気もするし、認識や認識論のうちからこういう領域をなくしていくとどんどん色んなものが薄っぺらになってく気もします。

この「世界が本来的にはおそらく魔術的である」みたいな事を安易にいっていいなら、「世界の中に奇跡があるのではない。この世界があることが奇跡なのだ」(byヴィトゲンシュタイン)みたくなるかもだし、そこを探求し、それに遭遇する事自体が「魔術との遭遇/魔術としての遭遇」であり、それ自体やはり魔術的な出来事なのではないのか、という感もあります。ありますが、そこまで行くとマジックワードとしての奇跡だの魔術だのを持ちだして何がなにやらって感もあるので、この辺はじりじり進んでいこうと思います(`・ω・´)ゞ

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