2017年10月14日 - 80

ルールについて

仮に、1つの世界が破壊される時、その世界に属していたルールは全て破壊される、とする。これが成立するのならば、(ルールが属する)世界が永遠でない限り、破壊されないルールは無い。

仮に、科学が全ての事象を予告出来る、とする。そして科学が世界の終焉を予告し、そして、世界が終焉した時あるいは破壊された時、そこにあった科学はまだ予告が出来るのだろうか。それとも世界と共に滅び、もう予告は出来ないのだろうか。

仮に、1つの世界が生成される時、その世界に属するルールも生成する、とする。これが成立するならば、ある世界のなかで不変に思われるようなルールや、極めて不変に思われるようなルールも、世界の生成に伴って生成している、という事になる。

※0:ところで俺のテキトー予想では、世界は時々破壊されないと、いつか止まって本当に死んでしまう。

※0.1:ところで仮にどの世界にも属してないルールがあるとすれば、それは一体「どんな姿」で「どこ」にあるんだろうか??

※0.2:ところで世界が破壊された時、何かの痕跡は残るのだろうか。それが動いていた方向性の残響や名残や軌跡のようなものとかが。心情的には残ってほしいけどねっ!w

※0.3:例えば真理なるものがあるとして、それは、全てが壊れたり滅びたりした後でもあるものなのだろうか??その「全て」に真理なるものも含まれるのではないだろうか??あるいは全てが一度に壊れる事はなく、壊れる場所をとっかえひっかえしながら進化のトートロジーの全体は活力を失わずに動き続けるものなのだろうか??

※0.4:仮に進化のトートロジーの全体は一度に壊れる事はない、とするなら、今あるこの全体はどこから来たのだろうか??いきなりまるっと現れたのだろうか??それとも無から生じたのだろうか??無から生じたのだとするならば、また無に戻っても、いつか生じる可能性はあるのではないだろうか??

※0.5:ちなみに俺はすげーテキトーに、無には重さがあって、その重さから世界の元は生じたんじゃねーのとか、ふわふわ空想している人です。じゃあその重さも無い状態ってどうなん??って言われると全然分かりませんがっ(`・ω・´)ゞ


例えばスポーツにおいて、ルールは保証されている様に装われている。ボクシングでキックしたら反則になる。そういう意味では、ボクシングは、ボクシングのルールの展開系として動作する。その系が許容する範囲なら、ボカボカやっていいって話だ。

同じように数学や論理学では、ルールは保証されている様に装われている、のじゃないかなと俺には思われる。数学や論理学は、その系の公理の展開系として動作する。どの系が許容する範囲なら、どのようなロジックを組んだっていいって話だ。

数学を規範とした物理学、物理学を規範とした諸自然科学も、俺にはそうではないかと思われるところがある。それが規範とする系の公理の展開が許容する範囲なら、どのようなロジックを組んだっていいって話、に思われるって事だ。もちろん自然科学には様々な説があり、それは覆ったり変わったりする。でも大本のルールの捉え方自体は、そう大きくは変わらないように俺には見える(これは俺がよく分かっていないだけかもしれないが)。

ところで俺らは往々にして、ルールが保証されていない世界、あるいはルールが変わり続けていく世界に生きている、ように俺には思われる。仮にそれを「生きた世界」という事にする。そこではスポーツの様に何かが保証されている訳ではない。俺らが生きる世界、俺らが認識する世界は、つねにすでに変わり続けていく。スポーツや科学や自然科学(数学のような演繹的論理学も含む※1)が成立するのは、そのルールが「ゲームとして」あるいは「ゲームを成り立たせるために」保証されているからだ(と俺は思う)。

※1:いわゆる自然科学を雑にいえば「演繹的論理学を思考法式の基底とした、帰納的論理学の系」といってもいいのかもしれない。その系においては、実験データの帰納により無数の法則が変わっていったとしても、それらの基底である演繹的論理学の部分は揺らがないか、少なくとも極めて揺らぎづらい。

ところでしかし、俺らがいる生きた世界は、そこが真に無保証であるなら「そこが無保証であるかどうかも分からない世界」という事に、おそらくなる。そしてその中で、俺らの認識は、無数の経験、無数の思いの中で変わり続ける。そして例えば俺らが死ねばそれは消えるかもしれない。誰かが生まれれば、それはまた生じるかもしれない。そして重要だと俺が感じるのは、俺らは、おそらくだが、自然科学だの数学だのを知る前に、生きた世界に生じたかもしれないし、生きようとしたかもしれない、という事だ。

それは本当かどうか俺には分からないが、もしそうなら(全てのルールあるいは出来事が、無保証であるかもしれず、変わり続けていくかもしれない)生きた世界(という経験)は俺らにとって、あるいは俺らの生にとって、自然科学だの数学だのよりも、つまり全ての演繹的論理学を基底とした類の知や認識よりも、手前に、近しいところに、あるのではないか、という事だ※2※3。

※2:もっと雑に言うと、科学を知る前の世界が、俺らの生により近い世界ではないか、みたいな話だ。それを科学で語れる(あるいは語り尽くせる?)と思うのは、ある種の(いえば認識の発生順序の)順序間違いにも思える。

※3:少なくともこの観点から、俺は、いわゆる自然科学的な方法で、心などを語ろうとするのは失敗なのではないかと思う。それは雑に言えば「ルールが変化する世界(の事物)」を「ルールが変化しないモデル」で語ろうとする、モデリングの適用のミス(という前提レベルのミス)であり、それはいくら「ルールが変化しないモデル」の精度を上げていっても、到達したいところに到達するものではないようにも思う。少なくとも必要なのは「ルールが変化するモデル」をベースにした語りだと思う。そしてまた「モデリング自体がものごとへの到達を妨げるものだ」という説もあったりするので※3.5、この辺はしっかり追っても超絶厄介で、絶賛語り損ないまくるんだろうなーって気もする(もしかしたら語り損ないは避けられたものではないのかもしれないし、あるいは、語り損なわないと語れないものもあるのかもしれないが)。

※3.1:生を、生以外のところに置いた何かを経由して語ろうとするという事だから。そしてそれは、俺らの経験において、生の経験の直接性がフォーカスされず、それ以外の何かがフォーカスされる(生の経験の直接性が、あるやり方で遠ざけられたり隠蔽されたり阻害/疎外されたりする)という事だから。この辺ちょっとアンデルセン神父の「神ではなく神の力に仕えている」を思い出す。(神の力?的な)モデリングばっか頑張っても、神(?)には到達しないでしょー的な感じで。

※3.2:モデリングの話で言えば、生は、俺からすればだが「ルールが変化/変動する」というだけでなく、「草の三段論法的である」「因果と論理が取り留めもなく織り合わさっている」というとこもあるような印象がある。もち他にも多くあるかもしれない。例えばストカスティックプロセスの話、長く残るルールの話、その他諸々。

※3.3:草の三段論法てのはあれっす「草は死ぬ」「人は死ぬ」「ゆえに人は草である」ってやつです。連想的だよね。


ところで数学なんかは公理が発展して出来ていく。これを「公理発展的」という事にする。そこには演繹の連続があり、またおそらくトートロジーしかない(数学に取り組む人、を「数学システム」の一部と見なせば、それはおそらく単なるトートロジーの展開とは違う様相になるのだろうが)。

ところで学習はどっちかいうと帰納的だ(と俺は思っている)。ただし、学習したなかで形をとったルールから演繹も可能だ。だが学習はその原型において帰納的なのではないか、とも俺には思える。水の中で手足をばたばたするみたいにしながら泳ぎを覚えていくように、はじめにランダムな状態があり、それが成功体験/失敗体験によって像を結んでいく、というやつだ※4。

※4:ところで成功体験/失敗体験を決定するものは生存性(溺れて死ななかったとか泳げたとか)とかだと思うが、これはベイトソン的なストカスティックプロセスの中の話と理解すればいいのだろうか??少なくとも単なる演繹的な出来事ではないような気がする。文字通り(「生存する」という「(その系における)古いルール」が生き残ったという)生存的、価値判断的な出来事と捉えられるのだろうか??

何をいいたいかというと、俺らが世界を経験するやり方が学習的だとするなら(そしてそれは多分そうなんだが)、それは公理発展的のように、ある固定的なルールがあって、それがトートロジーとして展開していくようなやり方ではなく、帰納と演繹を繰り返す中で、無数のルールが姿を変え、生じ、滅び、つまり淘汰され、それが(おそらくは統計的に)ある姿を取っていく、というやり方だろうという話だ。

それはトートロジーのように、はじめから展開する先が決まっているわけではない。ルールがどう変化し、この先に何が起こるかなんてのは、おそらく俺らには分からない。ただ統計的に形作られた構成から、つまり予測の地図から、今出来る程度の予測が出来るだけだ。

なのでここでも、自然科学のような認識的な方法から、俺らが世界を経験して学習する、そのやり方(あるいは生きた世界を生きたり経験したりするそのやり方)を語るのは間違いなんじゃないか、と俺は思う。あーなんか話のステップちょっと変だけど、伝わる程度にカタチになればいいから、とりあえず書いておくっす(`・ω・´)ゞ


書いてきたように、俺としては、科学については、ルールが変動する生の体験の場の中にいる生きたものが、そこで「変動しないとされたルール/ツール群を用いて/介して、世界を認識しようとする」試みにも思える。それの是非は問わん。俺もともと自然科学的な思考自体は好きだしw

しかし俺の感覚では、そのような「変動しない(とされた)ルール群というツール」は、変動する生の体験の中から選び取られたものだ。言い換えれば、科学などは生の体験の一部であって、全部ではない。科学のようなスタティックな認識よりも、おそらく手前には、もっと無数の可能性があるダイナミック(あるいは揺らぎ、移ろう)な生の体験があるのではないか、と俺は感じたり、文献とかで見たり聞いたりしている。

ところで科学は、現時点で俺が感じているところでは、それが発生したり選び取られたりした場である生の体験も「科学の系において説明可能なもの」として、覆い尽くそうとしているように思える。これはそもそも論でいくと順序間違いであり、また部分と全体の履き違えに俺には思える。

別に俺は宗教は好きでも嫌いでもないが、例えば死について何らかの示唆をしてくれるのは、科学的な見方よりも宗教的な見方が多いのかもしれないとも思う。まあ人によるだろうし、俺はそういう意味での宗教に依る気は特に無いけどなwただこれは、「スタティックな認識」「硬質な認識」で形作られる世界の(アタマでは分かってるけどね的な)認識よりも、生の体験に近しいところから形作られる世界の認識の方が、死という経験においては刺さるものである、というところはあるのではないのか、と思う。また違った話として、硬質な認識が出来ないような状況(身体的な損傷や、精神的な負荷など)のなかで、人がすがろうとするものは、その人の生の経験により寄り添ったように思われるものではないか、という印象もある。

繰り返すが俺は宗教は好きでも嫌いでもないが、そういう生の経験に寄り添った、あるいは生の経験それ自体であるような世界を失わせてはいけないと俺は思う(というか俺らは実際はいつだってそういうところにいるのではないのか??)。飛躍があるいいかたをするけど、生の経験から、生の経験のダイナミズム、ポジティブさ、ネガティブさを奪った(奪うというよりも隠蔽的であったり疎外/阻害的なんだろうが)先の「硬質な認識」にまっとうなものあるのか俺には分からない。というかほぼほぼ無いんじゃねーかと思うけどな※4.5。

※4.5:ところで生の経験の「やわらかさ」を基準にした時に、生きるために、そういった「硬質な」認識を武器として選ばざるを得ない事もあると思う。そういう悲哀あるいは滑稽さってのは、それはそれでちゃんと見ないといけないもんだと俺は思うけどね。

※5:生きた世界をあえて科学ライクなやり方でいうなら、その生きものにとっての(変動し続ける)環世界、って言い方でもいい。例えば俺の環世界と誰かの環世界が違うように、俺の生の経験は他の何かでの代替は、おそらくちょっと難しい(ところで、だから個々の環世界や個体に価値があるとかないって事ではない)。ただおそらく、ある程度似た環世界を経験している生きもの同士なら、経験を重ねれば「統計的には」ある程度似た世界を生きてきた、という事にもなるかもしれない。そういった生きもの同士は、幾分かは相互に相手に伝わるかもしれない伝達方法を使うことで、相互に何かを伝えられるかもしれない※6。

※6:ところで同じような理由で、言語は一人ひとりで同じ意味を指し示しているとは全然限らない。俺が使う「○×△」という言葉は、誰かが使う「○×△」という言葉と、音節が、あるいは表記が、似ているだけの別物かもしれない(統計的に似通っていそうなら「まあ同じ内容だろうね」って事になるのだろうが)。そしてまた、言語の話者である個別の人間の経験してきたものが違う以上、やはりそこには同じ言葉でも指し示す意味が全然異なるかもしれない。

※7:ところでそういった言語ではなく、動物とコミュニケーション出来たり、植物の何かが分かるみたいな人もいる(らしい)。そういうところでは何が起きているんだろうか。それは俺は気になるところだ(哀しみとかを喚起する音楽とかもそういうものなんだろうか)。ベイトソンがいうところの「手紙を出さない事もメッセージになる」とか、そういうレベルのやりとりがどのように行われ、何が何に刺さった時に「伝わった」という事になるのだろうか、という事だ。それは動物ではなく人同士でも同じではないのか(人も動物なのでー、みたいな話は絶賛受け付けます。俺もそう思ってるからなw)※8。

※8:こういうコミュニケーションの話には、メッセージとコンテクストだけでなく、メタ-メッセージとか、メタ-コンテクストとか、示唆とか、断絶とか、もしかしたらメタ-メタ-メッセージとか、メタ-メタ-コンテクストとかが絡んでくるのかなーと思うけどまだ俺にはよく分からん。ただアフォーダンスなんかはそういうとこを解読しようとする取り組みにも思えるとこがある。あるいはメッセージなんてのは、例えばメタメッセージの素材なだけで、本体は、ある意味では、メタメッセージの方なのかもしれないとも思ったり思わなかったり。←

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