2017年10月18日 - 80

メモ:観測機とか草の三段論法とかについて

例えば意識が分解-組み立て可能な観測機だとする。例えばそれは寝ている時に分解されていて、起きたら組み立てられ、観測を出来るようになるとする。

もしそうなら、観測機が分解されている間は、観測機は観測出来ない。観測機が組み立てられて初めて、観測機による観測は可能になる。観測機が分解される寸前までしか、観測機は観測が行えない。観測機が分解された後に世界がどうなっているのかを、観測機は観測できない(例えばそのようなカタチで意識の姿が失われた時、そこにある(この理屈的には観測できない)ものを「身体」といっていいのだろうか?それともダメなのだろうか?)。

それが一つの観測限界だとする。多分観測限界は少なくともあと2つある(間違ってたらすまねー)。1つ精度の限界。例えば何かが動いていると観測できるのは、それが「観測可能な動きの最小精度」よりも大きなレベルで動作しているからだ、と捉えられるかもしれない。

それともう1つは観測順序だ(これを観測限界といっていいのか俺には分からんのだけど)。うまく例えられないが、観測機の起動初期時(A)に見えるものの姿(これをある種の昏さとする)を、観測機がばっちり起動した後(B)の観測結果(これをある種の明晰さとする)を元に語るのは、ある意味では間違いになる、って話だ。もしまた観測機が停止をしはじめ、そこで処理が起動時の逆順で起きるとしたら、Aの地点(地点でいいの?)に来た時、そこで見える昏さを、もうBの時に見えた明晰さに照らしあわせて見る事は出来ない。Aの領域での昏さはただ昏さとして観測/経験されるだけだ。

そして、話を意識に戻すが、意識がレイヤーとしてA層(昏い)、B層(ふつー)、C層(明晰)とあって、A→B→Cの順で起動時?に形成されていくのなら、Cの明晰さでAやBを語ったり、Bの明晰さでAを語るのは、C層の影響がおよばない範囲(Cがなくても動くところ?)や、B層の影響がおよばない範囲(Bがなくても動くところ?)には、おそらく意味のない話だ。そこでは動く力学の姿が異なる。

仮に、A層からB層が形成され、B層からC層が形成されるとして、おそらく意識の根、観測機の根、俺らの根はずっとAにあるのだ。観測機が組み上がり、物事が明晰に精査され得る前の世界に、観測機の根はおそらくあるのだ。そしておそらく、そこの力学が観測機の全ての可能性の土壌なのだ※1。

※1:まあもち意識は観測機ではないのだろうが。それは観測機ってより経験機、あるいは経験の器(うつわ)という意味で経験器っていった方がまだマシな気がする。どの様にあるかは分からないし、あるかないかも分からないような「真の身体/(A層か、さらに下層のものなので)観測不能な身体」なるものが世界を経験する方法/器というか。

※1.5:文脈とはめっさ関係ない書き方をすると、公理をまなざす目線の先にしか、公理によって基(もとい)付けられた世界は、おそらくは、ないのだ。その目線が公理にたどり着く手前には、基付けられない世界があり、目線は、おそらくだが、そもそもは、基付けられない側の住人なのだ。


草の三段論法は多分へんてこだ。草は死ぬ、人は死ぬ、ならば人は草である、ってやつだ。これは連想的だともいっていい、と俺は思う。ところでこれがカテゴリ作りになるとだいぶへんてこじゃなくなる。草は死ぬ、人は死ぬ、ならば草と人は「死ぬもの」である、みたいなやつだ。イコールで結びづらかったものが、同じ述語的様態を取れる事によって、同じ仲間にされるってものだ。そしてまた連想的なカタチでものごとの連結を進めると、丸いはりんご、りんごは赤い、赤いはポスト、ポストは四角い、みたく、丸かったものが四角くなったりする。

ところでこういった観点からみて、例えば「人ならぬもの」とは何だろうか??俺らの認識は論理的にも連なっているかもしれないが、連想的にも連なっていて、それはあっという間に異なっていた物同士を結び、同じだった物同士をほどいていくのではないのだろうか。そういう(認識的な)世界においてカテゴリだの分類だのとは何だろうか。

これはフロイトやユング的な見方なのだろうが、例えば意識や無意識というのは、そういった連想的な方法で連なり、またほつれたりする力学的な織物ではないのだろうか。そして認識的な闘争とは、その織物同士の相互審級であったり、「現実なるもの」から受けるその織物への審級において生じる闘争ではないのだろうか。そしてまた、その審級/現実なるものとの齟齬や乖離が、織物に、あるいは織物のうちや織られ方のうちにあるとき(多分往々にしてあるのだが)、それは様々な力学的動きを開始するのではないだろうか。


アフォーダンスとはある意味ではメタメッセージではないのだろうか??それはメッセージの配列から示唆される、メタメッセージの配列ではないのだろうか??(そしてまた、メタメッセージの配列から示唆される、メタメタメッセージの配列だのもあったりなかったりするのではないのか??)

例えば、推理小説とかで、こいつ犯人じゃなかろうか??と思われるキャラクターなんてのは、服装だの態度だの発言だのといった「メッセージの配列」から示唆され得るメタメッセージの配列が「めっちゃ怪しいw」というカタチになってたり、メッセージの配列とメタメッセージの配列が示すところにおかしな齟齬があるようなものではないのだろうか。

あるいは景色や景観といったものについて風情だの良さだのが語られる、というのは、その景観そのものを織り成しているメッセージ的な石だの樹だの建物だのがどうこう、ではなく、その配列によって、ある種の奥行きのあるメタメッセージが示唆されているからではないのだろうか。

そしてまた、一般的なコミュニケーションにおいても、重要なのはメッセージではなく(少なくともメッセージだけではなく)、メッセージの配列によって示唆されるメタメッセージの配列ではないのだろうか??俺らが解釈しているのは、一つ一つのメッセージだけではなく、メタメッセージもではないのだろうか??そして、メタメッセージの配列や奥行きというのは、非常に無数の可能性があるものではないのだろうか。

こういう言い方をするなら、心なるものがあるとしたら、それはメタメッセージだのメタメタメッセージだのによって情報の送受信を行おうとするものではないのだろうか(もしそう解釈していいのなら、心なるものは層構造を取っている、って話になったりならなかったりするんすかね??)??もしかしたら送信はメッセージ的な方法しか選べないのに、受信はメタメッセージ的になる、的な非対称性があったりなかったりするかもだけどな(/ω\*)イヤン

あるいは、心なるものは、そういった「メタメッセージレベルとかメタメタメッセージレベルの領域で動作するもの」と捉えられたりしてるのではないだろうか。「その仕草/動作/表情の中に、彼/彼女の○○な思い/心が透けるようであった」みたいな文章とか。○○には好きな単語を入れて下さいw※2

※2:ところで、明示的なメッセージにしてしまったら、その明示性によってorそれをメッセージにしてしまったという事によって、破壊されてしまうメタメッセージというのはあるのだろうか。俺はあるんじゃね??って感じる。

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