2018年1月14日 - 80

メモ:呼吸のような出来事について

このブロックはここから抜粋(もしかしたら極めて重要かもしれない)。きわめて単純な、あるいはごくごく雑なイメージとしては、生命は(あるいはもしかしたら心も)、袋と内容物の様なところがあるものかもしれない。それは袋自身に貯まった内容物をリリースするかまだ貯めるかを、袋自身が検知調整するようなもの、あるいは無数のそれの集まりだ。自身の(量的な、あるいは配置も含んだ)状態を検知して、そこからある命題のリリースに向かうかクローズに向かうかを調整するような再帰的なシステム。そしてまた、クレアトゥーラのプロセスにおける複雑さ/迂回のまっとうな深化(目的論的な結果の深化ではなく、プロセスそのものの深化)とは、そのリリースにおける生命の顕われの豊かさの深化なのかもしれない。ところでこの調整的再帰的システムは「システムのうちの何らかのアナログ量」を検知する「何らかのデジタルシステム」がシステムの外部にあるような、アナログとデジタルが分かれたタイプではないのではないかと思う。そうではなく、全体的な調整を行うアナログのみのタイプであるのではないか、と想像する。これは言い換えれば、システムの外部にチェック機構を持たない、システムのみでシステムの状態をチェックするような、トートロジカルなシステムである、という事だ(デジタル的なチェック機構がシステム内部に組み込まれているならそれは構わない。それは大きく見ればトートロジカルなシステムだからだ)。ここの判断や想像は俺には何ともいえないところだが、ただ少なくとも、外部にチェック機構があると想像すると、それはそのチェック機構の外部にまたチェック機構があり。。。という無限遡行になってしまうような印象がある。

遅延(袋のような構造)、部分的な交換(呼吸のようなやり方)、などは、システムを開きつつ閉じたものにさせる。それは生きたものを生かしつつ閉じさせない世界の姿を形作る。そういう意味でいえば、生態系のようなものを(鳥瞰的に)「循環する」といってはいけないのだ。それは個々の、個別の、開きつつ閉じるシステムの破壊と生の試みなのだ。

このブロックもここから抜粋。システムはトートロジカルなのではないかと想像する一方で、無限遡行を安易に否定する気持ちにもなれない。この辺りは、システムはトートロジカルだけれども、その存在はある種の無限に対して開かれている、という事になるのかもしれない。なぜならば、トートロジカルなシステムは、外部に対して自ら以外の何の支えも持っていないからだ(あるいは持っているとも持っていないとも語れないからだ)。それはつまり、外部というある種の無限に対して、存在としては開かれている/臨んでいる/放り投げられている、というカタチになるのかもしれない。そのため「外部という無限の先を否定できない」という意味で、どこかに無限遡行が起きる可能性も否定できないのかもしれない。そしてまた同時に、トートロジカルなシステムと外部との関係のうちには、ベイトソンが「マインド」のネットワークと語ろうとしたことも感じられるのかもしれない。この辺りはあまりに大きすぎて、俺にはまだよく分からない。またこの辺りについて感覚的であったり感傷的であったり、あるいは限定的かもしれないことをいえば、全てのトートロジカルな生きた/生きようとするシステムは、システムの外の無限(という分からなさ)に対して、自身を含めた無数のメッセージを投企して、それの伝達や開花、あるいはそのメッセージをそもそも発したところのものの伝達や開花、あるいは自身というシステムそのものの開花、あるいはコミュニケーティブな状態の開花を目指すところがあるようにも感じられる。またそれは無限に開かれているが故にもしかしたら無為かもしれないが、しかしそれを行おうとするのは無為だから/無為でないから、という判断では動作しない出来事な印象もある。

開きつつ閉じるシステムというのは、例えば呼吸のようなやり方である意味では実現可能となる。それは呼と吸があり、それによって身体というシステムを部分的に変え続ける。しかし一度に全て変えてはしまわない。それをしたらシステムは死んでしまうから。ここではあるパラメータ(例えば血中酸素濃度)が一定程度に保たれている事よりも「部分的に変わり続けている」ことで、外部に対して半ば開いているが、半ば閉じている、という事が出来ている、ことを注視した方がいいのかもしれない。身体に皮膚があったり体積があったりといった事による「遅延(例えば熱伝達の遅延)」も同じような話だ(それもまたシステムが開きつつ閉じる、という出来事をある意味で実現している)。ところで呼と吸のうち、多くのものをリリースしていいような状態が(深呼吸などにおける)呼となる。ここでは身体はリラックスし、筋肉の弛緩と共に、おそらくリンパや血管などにある物質など、それまで溜め込まれていたものが流れ出すような形を取っている(多分)。そこでは、この記事の一番上に書いた「調整機構」が、もしかしたらその役割を停止している(自己に対する監視からの一時的な解放)。多くのものはリリースされるがままになっている。そこでは呼と吸以上のこと、血中酸素濃度が一定程度に保たれる以上のことが起きているのかもしれない。つまり「リリースして構わない」という状態にシステムが置かれている、という事が起きている。あるいはそこにおけるより本質的な事(「リリースして構わない」という状態にシステムが包まれているなかで、システムが、調整機構によるリミッターなく、自己あるいは内在的な生理的、化学的、情報的、〇〇的、××的エネルギーを自身の深くからリリースしてゆく、という事)が起きている、という話だ。これは簡単な例だが、この事は生命にとって本質的なところにリーチし得る断片かもしれない。それは例えば、花の開花、情動の解放を伴う性的オーガズム、生成的な出来事としての受精からの卵割、あるいはエネルギーの最終的な(?)解放としての死、などなどに繋がり得ることかもしれない。これらは性的あるいは生殖的な現象などであるが、単に生殖にまつわる出来事である、というのと同時に、より広義には、生命現象におけるシステムの開花や何らかのエネルギー系のリリースのような、もっとずっと深い出来事のように思える。例えば何らかの出来事において気持ちが開くこと、あるいは閉じること、そういったことも、このような出来事に関わるような事かもしれない(例えば精子あるいはラクダの毛が卵子に貫入する事で生成的な出来事としての卵割が始まるのと、何らかのメッセージが伝わることで生成的な出来事として気持ちが開いてゆくことがもしかしたら似ている出来事かもしれないなど)。その意味で、こういったことは皆、より大きくは、無数のエネルギー系の流れ(の開閉)のなかにおける生命現象の顕われであったり、あるいは生命現象としてのコミュニケーション(あるいはコミュニケーティブさ)に深く紐付いたことなのかもしれない。

自己展開と自己修復は二面的なのだ(陽と陰のような話だ)。その間に、あるいはその共通項に、通るものはどういった姿か、ということがおそらくは重要なのだ。

人をひん剥いてくと「魂」のようなものが出てくるのではなく、微細で複雑で奥行きをもった調整機構と、それによって蓄積されたり遅延されたり抑圧されたり解放されたりする無数の内在的なエネルギーの系があり、その無数の系の重なりあいのうちの顕われに生命なるものの通り道がある、あるいはその重なりあいが生命でありその通り道である、という事だったりするのだろうか??良く分からないが何らかの志向性(もしかしたらごく原初的な愛着)のようなものは出て来そうな気がする。それが時に「魂」とか呼ばれたりするものなのだろうか。

意識というのは情報の統合装置的なもの(あるいは統合された情報)なだけでなく、予期(可能性シミュレート)装置的なもの(あるいは予期されつつある情報)にも感じられる。ここでいう情報とは「身体という系において起きていること」だ。そして身体という系は、いわゆるカラダの範囲だけではないかもしれない。

この頃現象学の本読んだ。俺には良かった(*´▽`*)

ところで、「システムの外部にチェック機構を持たない、そのシステムのみでシステムの状態をチェックするような、トートロジカルなシステム」の(システムの総体で行われる、という意味で、もしかしたらそのシステムにとっては自身に偏在するといえるかもしれない)チェック機構における判断状態/判断状況を「心」といってみるのならば、そのシステムのみでシステムの状態をチェックすることで、その次の動作や状態を形作ろうとする生命/生物は皆、その意味での「心」あるいはその原型や前段階的状態をもっているということになるのかもしれない。

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